大阪護国神社にて 歩兵第216連隊碑


  一  

大阪護国神社は大阪市住之江区南加賀屋にある。地下鉄四つ橋線住之江公園駅から地上に出ると、眼の前に見上げるような大鳥居が突っ立つ。
 二万平方メートルという広大な敷地に、本殿、奉安殿、宝物館、儀式殿、参集所、社務所と、それに別館・住之江会館などの社殿と施設がある。 この神社の創建が計画されたのは、日中戦争が本格化した一九三八年(昭和一三)のことだった。まず大阪府民のべ約三十六万人の勤労奉仕により、住之江公園の一角にあった低湿地を二年がかりで埋め立てる工事がおこなわれた。
 続いて本殿の本建築にとりかかる予定だったが、戦時中の人材と資材不足のため、これが実現は困難となり、一九四〇年五月、とりあえず仮社殿で、大阪府出身の戦死者を新たな祭神とする鎮座祭が、盛大に執りおこなわれたのだった。
 そもそも護国神社なるものは、一九三八年に国の方針として、一府県に一社ずつ設けるという原則(既存の招魂社がある場合は、それを護国神社と改称する)のもと、全国的にその創建が推し進められたのだった。 なぜこの時期に、こうした事業がおこなわれたのだろうか。いうまでもなく、戦争の長期化、激化にともない増加する一方の戦死者とその遺族に対処するためだった。
 周知のように、全国の戦死者を一堂に集めて祭るところとして、既に東京に靖国神社があった。しかし、地方に住む遺族がここに参集・参拝するのは並大抵のことではない。その点、府県別に護国神社を設けて、ここで戦死者の慰霊祭等をおこなえば、遺族にそんなに負担をかけなくともすむ。また一般国民には、護国神社が推進するさまざまな祭典、行事を通じて、いわゆる「忠君愛国と靖国の思想」をあまねく鼓吹・浸透させることができるという利点があった。
 その思想がいかなるものかは、戦時中の「小学唱歌」にあった次のような「靖国神社」の歌に端的に表現されている。

 ああ、たふとしや、大君に 命ささげて、国のため
  たてしいさをは、とこしへに  光りかがやく、靖国の神
 ああ、かしこしや、桜木の  花と散りても、忠と義の
 たけきみたまは、とこしへに  国をまもりの、靖国の神

 ところが、一九四五年(昭和二〇)八月、日本がアジア・太平洋戦争に敗北して、アメリカ占領軍が進駐してくると、靖国神社や護国神社の存立がにわかに危なくなってくる。というのは、占領軍が靖国神社と護国神社を日本軍国主義の支柱になっていたと判断し、きびしい措置をとる意向を示したからだ。  
やがて占領軍総司令部は日本政府に宛てて「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件」つまり「神道指令」と通称される通達を突きつけてきた。これは翌四六年制定の憲法第二十条の、いわゆる政教分離規定のもとになったものだ。このため靖国神社と護国神社は、もはや国家の手厚い保護を受けることができなくなり、宗教法人として再出発することを余儀なくされたのだった。  こうした現実に危機感を覚えた神道関係者らは、直ちに全国の神社の大半を占める七万八千余社を結集して「神社本庁」なる宗教団体を組織し、護国神社もこの系列に統合されることとなった。(ただし、靖国神社だけは神社本庁に加わらず、独自の宗教法人として存続することになった)。
 だが、一九五〇年、朝鮮戦争勃発、翌五一年、サンフランシスコ講和成立という情勢の中で、日本は公然と再軍備に乗り出し、いわゆる逆コースの時代がはじまると、靖国神社や護国神社が俄然息を吹き返してくるのである。
 神社本庁に遺族会、旧軍人団体、各種右翼団体、それに右派的傾向を持つ財界人、言論人などが、保守政党の政治家と結託して、靖国神社の国営化運動に乗り出すような世の中になってきたからだ。  大阪護国神社でも、こうした気運に乗り遅れまいとするかのように、一九六〇年(昭和三五)従来の仮社殿を立派な本社殿に改築するための運動が大々的に展開されるのである。即ち、時の大阪府知事を会長に据えた「大阪護国神社造営奉賛会」なるものが結成され、大阪府遺族会の会員十万余をはじめ、七百万の府民、官公庁、財界などが基金を拠出することになった。  おりから日本は高度経済成長期にあったことも幸いしたのか、一九六三年(昭和三八)五月、ついにこんにち見られるような千木、鰹木を載せた流麗な流れ造りの本殿が竣工し、多数の遺族と各界来賓臨席のもと、盛大な遷座祭が執りおこなわれたのだった。

  二

 こうして大阪護国神社の本殿が造営される前後から、かつて大阪ゆかりの歩兵、騎兵、砲兵連隊などに所属していた旧軍人たちの間で、続々と戦友会が結成されるようになっていた。海軍、航空隊関係の戦友会の結成もこれに続いていた。  戦友会の結成というものは、もはや軍籍のない復員兵士、つまり市井の人となった者たちの間で、任意に(参加、不参加は自由という形で)おこなわれたものだから、その組織の規模や内実は必ずしも一様ではない。
 ある大阪ゆかりの歩兵連隊の場合、まず連隊内に二十個ほどあった中隊毎(戦時中は一個中隊に二百名前後の兵士が所属していた)に戦友会が結成され、それらが互いに横の連絡をとりあって、連隊全体をカバーする戦友会へと発展してきている。しかし、このように大きな規模でまとまらず、もっと少ない人数で結成された戦友会もたくさんある。  だが、どこの戦友会にも共通するのは、戦場や軍隊で苦楽をともにしてきた者同士が一堂に会して、大いに飲み食いしながら、懐旧談に花を咲かすといったことが、会員に最も喜ばれる行事になっていることだ。もちろん、戦友会の仕事は只これだけでにとどまるものではない。亡き戦友たちとその遺族のために慰霊祭を執行したり、慰霊碑を建立したり、連隊史や中隊史のような書物の編纂をするといった事業にも力をいれているところもある。
  しかし、どこの戦友会でも元は連隊や中隊の幹部将校だった人物が、会長その他の主要ポストを占めているのが常で、下っ端の兵士だった者が戦友会をリードしている例などめったにない。つまり、戦友会には元の軍隊の階級序列がそのまま温存されているのだ。  したがって戦友会の宴会の際でも、もと連隊や中隊の「偉い人」だった者が上座にすわるしきたりになっている。すると酒の酔いがまわるにつれ、そうした元幹部将校にすりよっては「隊長殿、お流れを頂戴いたしたいのですが」なんて、旧軍隊時代さながらの態度をとる者が何人もでてくる始末だ。 ところで、これらの戦友会では六十年代の半ばから七十年、八十年代にかけて、その規模はまちまちだけれども、護国神社で遺族を招いてさかんに慰霊祭をおこなうようになる。また八〇年代から九〇年代にかけては、各戦友会が競い合うようにして、神社境内に慰霊碑を建立するに至るのだ。
 こうした風潮に拍車を掛けたのは、なんといっても 一九七〇年(昭和四五)、昭和天皇と皇后が護国神社への参拝をおこなったことである。これは神社創建以来の一大事件で、大阪ゆかりの遺族会、戦友会はもとより、官公庁、財界等もふくむ朝野あげて「天皇親拝」なるものを「歓迎」したのだった。遺族の中では、威儀を正した宮司に誘導されて拝殿に向かう天皇の姿を見て、感激のあまりむせび泣く者が続出したということだ。
 更に一九七八年(昭和五三)には、皇太子・皇太子妃(現天皇、皇后)が護国神社に参拝している。  いま神社の境内には、「天皇陛下・皇后陛下 御親拝 皇太子殿下・皇太子妃殿下御参拝 記念」と大書した碑が建っており、その裏面には大阪護国神社宮司 柳沢 寮なる人物が「謹誌」した「行幸啓の記」というのが麗々しく掲げられている。 「天皇・皇后両陛下には昭和四十五年七月十五日、当大阪護国神社に御親拝あらせられました。皇太子・皇太子妃両殿下には昭和五十三年五月三十一日に御参拝賜りましたことは遺族、戦友、崇敬者一同この上ない感激でございました。ここに御参拝の光栄と喜びを後世に長く伝えるため記念の碑を建立する次第であります。昭和五十四年十二月九日」  といった文面が彫られている。  大阪護国神社へは戦前から戦後にかけて何人かの皇族が訪れている。が、天皇や皇太子の参拝は絶えてなかった。それだけに神社関係者は、これを狂喜して迎えたのだった。  戦後二十数年も経ってから、しかも戦前のような「現人神としての天皇」ではなく、「人間天皇・象徴天皇」の参拝を、なぜそんなにありがたがるのか。護国神社関係者にはもともと熱烈な天皇崇拝者が多いからであるが、それだけが理由ではない。
 天皇の「御親拝」を「仰ぐ」ことにより、大阪護国神社は「創建当時の『忠君愛国と靖国の思想』に裏打ちされた護国神社」に回帰できるのだ。日本の敗戦直後、占領軍総司令部の「神道指令」により、あやうく抹殺されかかったその「権威」と「栄光」を取り戻すことができるのである。
 また護国神社を唯一のよりどころとしてきた遺族は、ここに「天皇の御親拝を仰ぐ」ことにより、「戦後日本の社会で、誰からも省みられず、世間から見捨てられたような存在になりつつある遺族」から、戦前の「わが息子やわが夫を大君のために捧げた」「誉れの家」の誇り高き遺族に回帰することができるのである。
 そしてまた、護国神社に集う戦友会の面々にとっては、ここに「天皇の御親拝を仰ぐ」ことにより、「敗戦国日本で全く権威を失墜してしまった旧軍人」から、もう一度「光栄ある天皇の軍隊の将兵」に戻ることができるのである。
 更に天皇自身はといえば、護国神社に「行幸」「親拝」することにより、かのマッカーサー元帥から神格を剥奪された「猫背の天皇」から「白馬にまたがって大日本帝国陸海軍の将兵を睥睨する大元帥陛下」にもう一度立ち戻ることができるのである。

  三

 いま大阪護国神社の境内には、なんと大小二十五基もの慰霊碑が建ち並んでいる。いずれも戦友会の建立になるものだが、私はこんなにたくさんの慰霊碑が建っている護国神社を他府県で見たことがない。これは派手好みの大阪人の気質の現れだろうか。それとも大阪ゆかりの戦友会はみんなお金持ちだからだろうか。  ところで、これらの慰霊碑はいちおう同じ所属部隊で戦死した戦友の死を悼んで建立したという体裁をとっているが、碑の裏面に掲げられた文面はすべて「輝かしい部隊の戦歴」を披瀝、誇示しているものばかりである。
 前章に書いたように、ほとんどの戦友会をリードしているのは、もと連隊や中隊の幹部将校だった者ばかりである。もと職業軍人だった連中が牛耳っている戦友会が、圧倒的に多いのだ。したがって慰霊碑の文面には、おのずからそうした連中の歴史観、戦争観がにじみでているのである。  ちなみに大阪府下の若者が多く参加し、私も一時期身を寄せたことのある歩兵第二百十六連隊の碑文は次のようになっている。
「我が連隊は昭和十四年三月編成され、翌四月軍旗を奉戴して、勇躍中支戦線に参加して漢口に上陸以来、終戦により軍旗と永訣する迄七星霜、支那派遣軍の精鋭第三十四師団(椿部隊)の中核として宜昌作戦をはじめ十二・十三号作戦、二次に亘る錦江作戦、予南作戦、鴻陽作戦、浙濺作戦、江北及び江南殲滅作戦、常徳作戦、湘桂作戦、徂江作戦等相次ぐ大作戦に参加、屡々軍司令官感状・賞詞を受け赫々の戦果を挙げた。この間、飢餓、酷暑、寒苦に耐え、瘴癘と闘い勇戦奮闘、祖国に殉ぜられた英霊凡そ二千三百六十二柱、その武勲は燦として千載に輝く。.  我等復員以来各々家郷に在って一向祖国の復興発展に力を尽して来たが、嘗て死生心契の諸霊のの忠烈、敢闘の姿、脳裡を去来し、その遺志に励まされ、加護により今日夢想さえしなかった繁栄を成し、国民均しく平和を慶ぶ。茲に積年の宿願漸く実り、戦史を編纂 鴻烈を偲び、鎮魂の碑を建立、遺烈を顕彰冥福を祈り、併せて祖国永遠の平和をねがう。 昭和五十二年九月十五日          歩兵第二百十六連隊戦友会 」
 なかなかの名文である。誰が起草したのか知れないが、これだけの文章を誰にでも書けるものではない。しかし、熟読してみると、美辞麗句が多いわりに内容は空疎だ。この連隊はもっぱら中国大陸で中国軍と戦火を交え、中国各地を占領してきたわけだが、そもそも日中戦争とはいかなる戦争であったのかという考察や追求が、全然なされていないのである。
 まるで戦時中の大本営発表のように勇ましい文句を、いたずらに連ねているだけだ。戦死者に対しては「祖国に殉ぜられた英霊」とか「その武勲は燦として千載に輝く」といった類型的な言葉で、片づけてしまっている。他の二十数基の慰霊碑の碑文にしても、すべてこれと大同小異である。 こうした慰霊碑の群れのなかに身を置きながら、私の胸には今更のように、「ああ、これが戦争というものか」という思いが卒然とこみあげてくるのだった。
戦争というものは、それが終わってからでも、半世紀以上もの長い時間をかけて、その真実を覆い隠す作業が営々としてなされるものだったのだ。 かのアジア・太平洋戦争は、日本が中国をはじめアジアの諸国に計り知れない損害を与えた侵略戦争であったと叫んでも、もはや誰も耳を傾けるものはないという時代に、いつしか入ってしまっているのだ。
かの昭和天皇には重大な戦争責任があるなどと主張しても、変人扱いされるだけの世の中になってしまっているのだ。
戦場で非業の死を遂げた無名兵士たちを英霊と祭りあげてしまうのはおかしいと言えば、それではほかにどのような弔い方があるのか、わたしの夫は、わたしの父は「侵略戦争に駆り出されて犬死にしたと言いたいのか」といった、悲痛な声が跳ね返ってくるだけである。 

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