君まちがうことなかれ


 

親愛なる堺市民よ。堺市の文化人たちよ。堺市長よ。堺市議会議員たちよ。
 そして世の与謝野晶子の熱心なファンをもって任ずる人達よ。
 あなた方が口を揃えて言うように、たしかに晶子は立派な文学者だ。
 堺市が生んだ偉大な歌人に違いはない。彼女の業績を讃え、彼女を郷土の誇 りとするために、堺市では目下豪華な記念館を建てる計画が着々と進められてい るが、それは大変結構なことである。

 しかし『君死にたまふことなかれ』という歌を前面に押し出して、彼女が本 物の反戦平和主義者だったかのような宣伝をするのだけはやめてほしい。
 この詩は明治三十七年(一九〇四)日露戦争が始まって間もなしに、雑誌「 明星」に発表されたのだが、これを見た詩人・評論家の大町桂月は、晶子の詩は 宣戦詔勅を非難したもの、つまり国を挙げて戦争を遂行している時に、それに水 をさす危険思想の表白であると断定し、攻撃したのだった。

 これに対して晶子は『ひらきぶみ』という、夫の与謝野鉄幹へあてた手紙と いう形式をとった一文を「明星」にのせて、弁明これ努めている。その晶子の文 語文で書かれた主張の一部を、現代文に直して引用すると次のようになろうか。
「私の『君死にたまふことなかれ』という歌は戦地にいる弟への手紙のはしに 書き付けてやったものです。それがどうしていけないのですか。あれは『歌』な のです」
「この国に生まれた私は誰にも劣らない愛国心をもっております」
「堺の私の実家の父ほど『天子様を思い』御上の御用に自分を忘れて尽くした 商売人はありません」
「私は『平民新聞』の議論など、ひとこと聞いただけで身震いがする者です」
「女は元来戦争が嫌いなのです。だが、戦争をするのは国のためにやむを得な いのだと聞かされると、では戦争に勝って欲しい、勝って早く戦争を終わらせて 欲しいと願う者なのです」
「大町桂月氏は私の詩にたいそう危険な思想があると仰せになりますが、当節 のようにむやみと死ね死ねと言ったり、なにか論じる際にやたらと忠君愛国の文 字を使ったり、畏れおおい教育勅語の言葉を引用したりする方が、むしろ危険な のではないでしょうか。私の好きな王朝文学にはかように死を賛美する言葉は見 当たりません」
「いま新橋や渋谷などの駅へ行くと、出征軍人の見送りにきた親兄弟、親類、 友達などがみんな兵士に向かって『無事で帰れ、気をつけよ』と言い、万歳を叫 んでいます。つまり、みなさんは私の歌と同じように『君死にたまふことなかれ 』とおっしゃっているのではないでしょうか。見送りの人々の声がまことの声な ら、私の歌もまことの声から発したものなのです」

 こうした晶子の主張ないし弁明の中で注目すべきは、当時「平民新聞」を発 行して果敢で本格的な非戦論、反戦論を展開していた堺利彦や幸徳秋水氏らの立 場に、自分は決して与しないと言っている点である。「平民新聞」の議論を一言 聞いただけで身震いするなどとは、まことの反戦平和主義者なら言える道理がな いのだ。つまり晶子は「平民新聞」を小馬鹿にすることによって、自分は危険思 想の持ち主でないことを証明し、身の安全を図っているのだ。
 更に晶子はわざわざ父が天皇尊崇者であったことをあきらかにして、世間か ら非国民のそしりを受けないように努めている点も見逃せない。
 晶子は『君死にたまふことなかれ』の第三連で、「君死にたまふことなかれ 。/
すめらみことは、戦ひに/おほみづからいでまさね、/互に人の血を流し、/ 獣の道に死ねよとは、/死ぬるを人の誉れとは、/おほみこころの深ければ/も とより如何で思されん。」と、天皇はまるで戦争とは関わりがないかのような、 そして天皇はもともと戦争を望まず兵士の死も望まない、ヒューマニスチックな 心情の持ち主であるかのようなうたいかたをしているが、ここのところは晶子が 天皇と軍隊との関係に無知、無関心であったことを露呈しているのだ。
 明治二十二年に発布された大日本帝国憲法には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と か、「天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム」「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般 ノ条約ヲ締結ス」とあるように、戦争は常に天皇の名によっておこなわれ、天皇 はその最高責任者だったのである。

 晶子の『君死にたまふことなかれ』には「旅順の攻囲軍にある弟宋七を嘆き て」というサブタイトルがついているのを見ても分かるように、この詩は新婚ほ やほやの若妻を残して応召した弟の身を案じ、老舗の跡取り息子を兵隊にとられ て嘆く母親の気持ちを察した、長女としての晶子の気持ちを率直にうたったもの で、一部の人が誤解しているような国家権力に抗しながら書かれた、本格的な反 戦詩などではないのである。むしろ「自然発生的な厭戦詩」であったものを、大 町桂月のような「愛国者」に噛みつかれたというエピソードがつくことによって 、こんにち見られるような異常に高い評価を得るに至ったと見るべきだろう。

 もっとも晶子は日露戦争に引き続き起こされた第一次世界大戦の頃には、も はや素朴な反戦論者の域を脱して、ヒューマニズムの立場からたぶんに本格的な 反戦平和の論陣を張る進歩的知識人に成長し変貌しているように見える。
 大正六年(一九一七)に発表した評論『私達の愛国心』では国家主義を真っ 向から否定し、「国家主義の上に築かれた国家は個人と衝突するとともに他の国 家と衝突する。則ち戦争の予想される不安定な国家である。低級な国家である」 とまで言い切っている。
 同じ年に発表した『学校に於ける兵式体操』では学校の軍事教練をやめよと 主張している。
 大正七年、シベリヤ出兵に際しては『何故の出兵か』を書いて明確に反対の 意を表明している。
 大正十年には『軍備制限の提議』を書いて海軍軍備制限をめざすワシントン 会議を支持し、軍事力縮小に反対する「軍人者流の浅薄な議論」を批判している 。
 大正十三年、晶子は更に『極度の軍備縮小』を書いているが、その中で、戦 争は人種的、歴史的反感ばかりで起きるものではなく、やはり経済的な利害が有 力な原因になっている。そこで日本のように天然資源に恵まれない国は絶対に外 国から侵略される恐れはない。では日本が外国へ侵略して行けばどうなるかとい うと、貧乏国としてたちまち経済的孤立におちいるので、領土的野心のあるなし に関わらずそうしたことは不可能であろう、といったことを述べている。

 このように大正時代の晶子は、わりとはっきりした反戦平和論を展開してい たのだった。ところが昭和六年(一九三一)九月に十五年戦争の第一段階として の満州事変が勃発し、翌年にはそれと関連して第一次上海事変が起こり、一方、 満州国という日本の傀儡国家が樹立され、中国への侵略が次第にエスカレートす る頃になると、驚くべきことに晶子は俄にこれを支持する立場をとるのである。
 昭和六年に晶子は『東四省の問題』という評論を発表している。ここで晶子 はまず「私は以前から、支那の国民と其の支配者たる各種の軍閥政府とを別々の ものとして考えている」といった誤った中国観をのべ、近来中国に盛んな排日運 動はすべて軍閥政府と少数の学生、商人の煽動によるものとしている。つまり晶 子には中国の民衆の排日運動は、日本の侵略に対する反発から来ているとの認識 が全くなかったのだ。
 そしてまた晶子は、中国のような膨大な版図を持つ国は、一政府の下に統一 されるよりも、すくなくとも三、四の連邦に分かれた方がいいとしているのであ る。
 昭和七年に発表された『支那の近き将来』では「満州国が独立したと云う画 期的な現象は、茲にいよいよ支那分割の端が開かれたものと私は直感する」と述 べている。晶子には満州国は日本の侵略によってでっち上げられた傀儡国家であ るといった認識は全然無く、むしろ東北部の中国人を軍閥の圧制から解放する自 由楽土として、その成立を手放しで歓迎しているのである。
 また『日支国民の親和』では「陸海軍は果たして国民の期待に違わず、上海 付近の支那軍を予想以上に早く掃討して、内外人を安心させるに至った」と述べ て、これまた手放しで日本の侵略戦争を支持している。
 また同じ年に晶子の夫の鉄幹も、軍歌『爆弾三勇士』や『皇軍凱旋歌』とい った軍歌を作って、国民の戦意昂揚のためにつくしているのを見ると、夫婦一致 で戦争協力の体制をとっていたことが分かる。

 こうした十五年戦争初期の晶子の評論を見ると、大正時代に見せた反戦平和 論者としての面影は全く見られない。晶子はなぜ昭和に入ってから、おのが思想 信条を百八十度転回させるに至ったのか。そこに転向者としての苦悶のあとが少 しもないところを見ると、従来の彼女の反戦平和論議は大正デモクラシーの波に 便乗した付け焼き刃的なものであったのかもしれない。
 昭和七年の元日に彼女が書いた『日本国民たることの幸ひ』という評論をみ ると「私の常に感謝している事が幾つかある。中にも第一に忝なく思う事は、日 本に生まれて皇室の統制の下に生活していることの幸福である」という書き出し があり「日本は同じ法治国と云っても、権利義務の思想のみを基本とする国でな く、先史時代より皇室を中軸として其れに帰向する国民の超批判的感情に由って 結合された国である」とか「現に満蒙の野に戦死する支那兵にしても、軍閥の強 制の下に、軍閥の支持を目的に死なしめられるのであって、我国の軍隊が陛下の 大権に由り、極東の平和を確保する正健な目的のため、陛下の将卒として戦うの とは全く意義を異にしている」といったことを述べている。
 つまり晶子は『君死にたまふことなかれ』を書いた頃より一貫して皇室尊崇 者としての立場を守り、皇国史観に基づく歴史観、世界観、戦争観、軍隊観を持 ち続けてきたのである。ヒューマニズムに基づく反戦平和論を唱えていた一時期 でも、晶子が抱くこうした基本的なイデオロギーは変わらなかったものと思われ る。これでは晶子が、日本の中国に対する侵略戦争の実体を見抜けず、それを支 持したのも当然と言わねばなるまい。


 以上、晶子が書いた評論に基づいて、彼女が決して本格的な反戦平和論者で はないことを明らかにしてきた。ここからして『君死にたまふことなかれ』とい う一編の詩を前面に押し出して、晶子が権力に抗して果敢に反戦平和を唱えた文 学者であるかのように見せかけるのは、いかに罪深い所業であるかを理解してい ただけるのではなかろうか。
 もっとも、ここで誤解無きようにしていただきたいのは、晶子に日本の侵略 戦争を支持する一面があったからといって、私は晶子がすぐれた文学者であった ことまで否定しようとしているものではないことだ。人間性の解放とその全面的 肯定を高らかに歌い上げて、一世を驚倒させた処女歌集『みだれ髪』を筆頭に、 全二十巻に及ぶその全集に収められた数々の文学的営為は大きな価値を持ってい る。
 ただ私は、晶子が傑出した文学者であればあるほど、私達は彼女の負の遺産 にも眼をつぶってはならないと考えているだけである。むしろ彼女のような才人 がなぜあんなにもたやすく、軍国主義に呑み込まれていったのかを明らかにし、 それを若い人々に伝えていく義務が私たちにあるのではなかろうか。

 最後にペンを置くにあたって、親愛なる堺市民よ。堺市の文化人たちよ。
堺市長よ。堺市議会議員たちよ。私はあなたがたにお願いしたい。
 近く建設される与謝野晶子記念館では、彼女のすぐれた業績だけを称えて事 足れりとするのではなく、十五年戦争に際して彼女が犯した誤りをも展示するだ けの勇気と公平さをもって欲しいと思う。そうでなければ、巨額の経費を注ぎ込 んでせっかく作り上げた記念館が偽りの館、誤魔化しの館と化してしまうのでは ないだろうか。

《註》本文でふれた晶子の評論はすべて講談社版『定本 与謝野晶子全集』に 収められている。



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