九州センチメンタルジャーニー
        
        ――私の特攻論
                
       一、
 
 一九九六年一月下旬、私は九州へ三泊四日の旅をした。目的は佐世保の浦賀 引揚記念平和公園・資料館と長崎の原爆資料館、それに鹿児島の知覧特攻平和会 館を訪ねることにあった。大阪から博多まで新幹線で行き、そこで佐世保線に乗 り換えて、早岐という駅で降りた。ここからタクシーで二〇分の所に、私の最初 の訪問先である浦賀引揚記念平和公園・資料館があった。
 なぜ私はここへ行ったのか。今からちょうど五十年前、昭和二十一年(一九 四六)七月に、上海から復員船に乗って佐世保に上陸したという、忘れられない 思い出があるからだ。私は昭和十七年(一九四二)に二十歳で軍隊に入った。そ れから足掛け四年、中国大陸の戦場を転々としたあげく、無事帰還することが出 来たのだった。
 浦賀引揚記念平和公園・資料館は針尾島の小高い丘の上にあった。同じ様な 施設である舞鶴引揚記念館と比べて、規模が小さかった。シーズンオフのせいも あろうが、入場者は私一人だけだった。私はまず平和の女神像があるモニュメン ト広場に立って、佐世保湾を見下ろしてみた。しかし私がいる所からは湾の一角 と向かいの岬が見渡せるだけだ。期待していたような広角度の眺望は得られない 。それでも私は真冬の鈍い陽光に照り映える静かな海面や、青一色の岬を見つめ ながら、この付近に上陸した時のことを思い出していた。
「戦争が終わって、一年あまりの捕虜生活を送った後、私たち支那派遣軍の兵 士は、戦友の遺骨を胸に抱いて内地へ帰還してきた。東シナ海を越えてきた復員 船のデッキの上から、数年ぶりで九州の緑の島と藁葺きの家と、風に翻る赤ちゃ んのお襁褓を見たとき、私たちは思わず手をとりあって男泣きに泣いた。ああ、 生きて祖国へ帰れたのだ、あの地獄のような戦場から脱出できたのだ。生きてい るってことは、なんと素晴らしいことだろう」
 これは私の散文詩『従軍慰安婦だったあなたへ』の中の一文である。私が乗 った船がまさに佐世保湾に入ろうとした時に眺めた風景だ。しかし、今はどこを 見渡しても「風に翻る赤ちゃんのお襁褓」なんか認めることは出来なかった。今 時そんなものがあるはずがないじゃないか。そしてふと、あの時お襁褓をして貰 っていた赤ちゃんたちは、既に五十男や五十女になってしまっていることに気付 いたとたん、今更こうした思い出の土地を訪ねて感傷にふけっている自分が、た ぶんに哀れで滑稽な存在に見えてくるのだった。
資料館に入ると、私と同年輩の係員が一人で番をしていた。この人も引き揚げ 体験を持っているという話だった。佐世保港には昭和二十年十月より、同二十五 年四月までに、主に中国大陸や南方諸島から引揚船千二百十六隻により、一般邦 人、軍人軍属あわせて百三十九万六千四百六十八名が上陸しているのだ。館内に は、引き揚げに使われた数十隻の船舶の写真と船名がパネルにして掲げられてい たが、私が乗った船がどれだったか、もはや識別することは不可能だった。しか し、当時の復員兵士の上陸風景や、佐世保引揚援護局の全景写真などを見ている うちに、私の記憶は次第によみがえってきた。
 特に看護婦が二人がかりで、船からあがってきたばかりの兵士のシャツやズ ボンの内側に、DDTをふりかけている写真を見た時、私もこの処置を受けたこ とをまざまざと思い出した。面白いのは看護婦が持っている撒布器が、自転車の 空気入れのように大きいことである。当時の私達はみんな中国の捕虜収容所以来 の着た切り雀で、汚れに汚れた軍服や肌着の縫い目に忍び込んだ何十匹ものシラ ミに悩まされていたのだが、この薬でたちまち退治できたのだった。そしてこの DDTというすごい威力をもつ薬剤が、勝者であるアメリカ軍によってもたらさ れたものであると聞かされて、敗残の兵士たちは今更のように感嘆の声をあげた ものだ。
 ところが私はなおその上に「ひぜん」といって疥癬虫の寄生によって生ずる 伝染性の皮膚病にも犯されていた。手足の指の間をはじめ、脇の下に内股、それ に陰部といった皮膚の柔らかいところばかりがやられて、その痒いことといった ら気が狂いそうだった。この皮膚病は、上陸地点から七キロほど行軍して辿り着 いた佐世保引揚援護局の宿舎で治療を受けた。その時、うら若い看護婦がいかに も恥ずかしそうにして、私のペニスに特効薬の硫黄剤を塗布してくれたこともあ りありと思い出した。
また宿舎で泊まっている間に、行商人が持ち込んできた枇杷を買ったのだが、 皮や種子を棄てて甘い果肉の部分だけを食べるなんてことは、勿体なくてとても 出来ず、皮はもちろん、あの硬い種子や実についてきた葉っぱまで、それこそ枇 杷のすべてを食らわないことには気がすまなかった。今にして思えば私たち復員 兵士は、おしなべて浅ましい餓鬼道におちいっていたのだ。
 さらにパネルを順次見ていくと、復員兵士たちが引き揚げ列車に乗り込む場 面の写真があった。よれよれの軍服を着て、背嚢や毛布など大きな荷物をかつい だおびただしい数の兵士たちが、露天のプラットホームに満ちあふれている。そ こに停車しているのはろくに窓ガラスもないオンボロ列車で、先頭の蒸気機関車 だけが勢いよく黒煙を噴き上げている。私はひょっとしたらこの写真の中に自分 がいるかも知れないと思って、穴のあくほどそれをみつめた。そして、私はこの 写真についている説明によって、五十年前に乗車した駅の名前が南風崎であるこ とを、やっと思い出すことができたのだった。
 資料館にはまた、私たち兵士が実際に身につけていた軍服や、巻き脚絆(ゲ ートル)、軍靴、それに水筒や飯盒の類が展示してあった。こうした物をつくづ くと眺めていると、戦場生活の様々な場面が、生死をともにした戦友の顔が、ス ライドのように次から次へと浮かんでは消えていくのだった。幸いにして客は私 の他には誰もいなかったので、私はここで得心が行くところまで思い出に耽るこ とができた。
次に私は再びタクシーで、近くのハウステンボス(オランダ語で森の家の意) へ行って見た。大村湾のふところに突如出現した観光地である。オランダの風物 や建物のイミテーションであるが、一日かけてもその全部を見切れないという規 模の大きさには驚かされた。好奇心のおもむくまま、その一角をうろついてみた が、この悪趣味に降参して早々に退散、JRハウステンボス駅から大村線の鈍行 で長崎へ向かった。

    二、
 
 長崎は三度目だった。原爆資料展示室のある国際文化会館へ行ってみると、 あいにく建て替え中で、資料は隣接する市立博物館で見られるようになっていた 。その入り口近くに、長崎へ投下されたファットマン(でぶ)というニックネー ムがある巨大な原子爆弾の模型が置かれていた。そしてその横に、アメリカ空軍 が広島への原爆投下直後に撒いた「日本国民に告ぐ! 即刻都市より退避せよ」 という見出しのついた警告ビラが展示してあった。そこには、アメリカが絶大な 威力を持つ原子爆弾を発明して、日本本土にこれを使用しはじめたこと、これに 疑いを持つ者は原爆が投下された広島が、いかなる状況にあるかを見よ、そして 、この無益な戦争をやめるよう天皇陛下に請願することを望む、といったことが 書いてある。
 まこと天皇や戦争指導者が日本の降伏をもう少し早く決意していたら、少な くとも長崎の被爆は免れることが出来たのだ。こうした無念の思いは長崎の人な らずとも持たざるを得ない。長崎については他に書きたいことがたくさんあるが 、今は先を急ぐことにする。

     三、
 
 私は長崎から再び博多へ引き返し、そこから鹿児島本線の特急で西鹿児島へ 向かった。鹿児島市内の観光は後回しにして、薩摩半島を海岸沿いに南下する指 崎枕崎線に乗り換え、喜入というわびしい駅で降りた。めざす知覧はここから、 タクシーで二十分くらいのところにあった。車はいくつもの小山の麓を迂回し、 峠をのぼりくだりして行く。いかにも南国らしく、陽光が一段と明るく、しかも 暖かい。空気がいいせいか、山林の緑が関西には見られぬ鮮やかさだ。日当たり のいい丘陵には茶畑が認められる。鹿児島弁丸出しの運転手は、知覧はお茶の栽 培が盛んなところで、その味は静岡や宇治のものに勝ると自慢する。やがて車は 、白岳、中岳、荒岳、母ヶ岳など群立する山々が望める盆地に開けた知覧町にす べりこんだ。町の面積百二十平方キロに対し、現在の人口約一万五千人。昭和三 十年の人口が二万五千人だったというから、あきらかに過疎地で、いやに物静か な町の佇まいはここからきているようだ。
 私はまず江戸時代、薩摩藩の統治下にあった頃の知覧の面影を残すという武 家屋敷群を見てまわった。十軒たらずのどの屋敷も外敵の侵入に備えて、石積み の防衛障壁を巡らした一種の砦になっているが、一歩門の中へ入ると間近な母ヶ 岳を借景にした、瀟洒な庭園がしつらえてあった。武家屋敷がある所は郡といっ て、今は一本の舗装道路沿いに町役場、税務署、簡易裁判所、郵便局などの官公 署と、それに旅館や商店街などがある町の中心部となっている。私が目指す特攻 平和会館へはここを通り抜けて行くのだが、塵一つ落ちていない舗装道路には槙 の並木が整然と植えられ、しかも道路の脇には無数の緋鯉が悠然と泳ぐ清流溝ま でしつらえてあるのに驚かされた。役場が掲げた「史と景と文化財のまち知覧」 という看板を見るまでもなく、今の知覧は観光客誘致のために、町をあげてのお 化粧に余念がないのだ。
 特攻平和会館が近づくにつれて、私の眼は更に大きく見開かれた。舗装道路 沿いには、数知れぬ真新しい石灯籠が連綿として整列しているではないか。近く に大きな神社などないはずなのに、いったいこれはなんの真似だ。それらの石灯 籠は経費をおさえるためか、ひとしく小振りで、その形も織部型灯籠に似せたシ ンプルな造りになっている。そして、いずれもその竿の部分に小さな地蔵尊が、 浮き彫りにされている。ところが、なおよく見るとそれは地蔵尊ではなく、なん と飛行服を着た特攻隊員をシンボライズしたものだった。いつの間にか、特攻隊 員は「モダンで可愛い地蔵尊」になってしまっているのだ。今後私はこれを「特 攻灯籠」と呼ぶことにするが、いったい誰がこうしたデザインを工夫し、道路脇 に整列させることを思いついたのだろう。
 タクシーの運転手の話によると、町役場は今後この種の灯籠を、知覧ゆかり の特攻隊員千二十六柱の数になるまで増やしていく計画を立てているそうである 。つまり特攻灯籠も観光客誘致のための一手段になっているのだ。
 私はこの奇妙な「特攻灯籠」に導かれて、ようやく特攻平和会館がある台地 にたどりついた。このあたりはむかし特攻機が沖縄を目指して飛び立った知覧飛 行場があったところだという。私はひっそりかんとした場所を想像してやってき たのに、今は平和公園の名のもとに、陸上競技場、野球場、町民会館、特攻平和 会館、観光会館、レストラン、土産物店などさまざまな施設や建物を一堂に集め た知覧随一の名所となっている。小さな町なのにどうしてこんなことが出来るの かと思ったが、過疎化対策やまちづくり事業のための政府の補助金をたよりに造 られたとのことだった。
 公園の入り口には桜の並木と、例の特攻灯籠の行列があって、観光客を出迎 える仕組みになっていた。シーズンオフにもかかわらず駐車場には数台の観光バ スが停まっていて、あたりは修学旅行の中学生や一般の団体客などで結構賑わっ ている。
 私はまず特攻平和会館へ入ることにした。この会館も、それまであった素朴 な特攻遺品館を建て替えたとかで、近代的な博物館としての様々な設備を整えた 立派なものだ。広々としたメイン・フロアの真ん中には、特攻隊員が乗り込んだ 「飛燕」という名の戦闘機がでんと置かれ、その周囲の壁面に特攻隊員の遺影や 遺書などを展示するコーナーがある。 
参観者は順次それらのコーナーをめぐっていくのだが、昭和二十年(一九四五 )四月から六月にかけて、沖縄の海に展開しているアメリカの艦船めがけての体 当たり攻撃で戦死した、陸軍特別攻撃隊々員千二六名(このうち知覧から飛び立 ったのは四百三十六名で、あとは九州の他の基地、沖縄、台湾などの各基地から 出撃した)の遺影(未収集の数十人分が欠けている)と遺書(全員のものではな い)が展示されているコーナーにさしかかると、誰もがひとしく息を呑まずには いられない。
 特攻隊員の写真と遺書は出撃した順に十一のコーナーに分けて展示してある のだが、写真は壁面に四段組にしてびっしりと張り付けてあり、遺書はその下の 陳列ケースに収めてある。軍服や飛行服に身を固めた特攻隊員の写真には、いず れも氏名、年齢のほか、軍人としての階級、出身府県名などが記載されている。 それを見ると一概に特攻隊員というけれど、陸軍士官学校出のエリートを筆頭に 、幹部候補生、少尉候補生、特別操縦見習士官、陸軍少年飛行兵、民間航空機乗 員養成所など、その出身に色々な種別があったことがわかる。
 当然のことながらどの隊員も若々しい顔をしている。中には俳優にしたいよ うな美男子がいる。ほとんどが二十代、それも前半という年頃だ。また一方、い まだにあどけない少年の面影を残しているのが混じっているが、この連中は少年 航空兵出身で、年はいまだに十七、十八、十九。 こうした死者の写真を見てい ると、思わず目頭が熱くなってくる。やるせなくなってくる。まして、彼らが残 した遺書を見ると、もういたたまれなくなってくるのだ。
 どの遺書も多少の例外はあるものの、だいたいパターンがきまっている。ま ず最初に「天皇陛下万歳!」とか「皇国のために良き死処を得たるは無上の光栄 」とか「敵艦を見事撃沈してみせます」といった、特攻隊員としての「大義名分 」や「抱負」に基づく文句をつらねている。そして、そのあとに「父上様、母上 様、今まで育てていただいたご恩義になんら報いることなく、先立つ不幸をお許 しください」とか「いつまでも御身大切に、自分の分まで長生きして下さい」と いった、肉親を思う切なる情が述べられているのだ。
いま死ぬのはいやだとか、特攻隊に志願して後悔しているとか、自分を特攻隊 員に指名した上官を恨むなんてことを書いた遺書は一つもない。それはなぜか。 肉親といえども今更自分の本音を明かしたくないという「男の見栄と意地」があ ったからではないか。それに出撃後、遺書はすべて上官に検閲されることが分か り切っていたから、下手なことを書いて、遺族に迷惑をかけたくないという思惑 もあったろう。
 もと知覧町立図書館長だった村永 薫氏は編著『知覧特別攻撃隊』の中で「 検閲を受ける軍隊の手紙や遺言は、真実が記されているはずもなく、なかには強 制されて書いたのもあるかも知れないなどと思うことはおろかなことです。死を 覚悟した勇士が、何で検閲をおそれましょう。死を前にして心情を吐露したいか らこそ遺言を書き、辞世の歌をよんだのです」などと言っているが、私はこうい う皮相な見解に賛成できない。
 遺書を書いたのはなにも特攻隊員だけではないのだ。私は支那派遣軍の歩兵 部隊にいた時、初陣であるいのちがけの作戦に出る前に、上官の命令で遺書を書 かされたことがある。これは人事係准尉が検閲することが分かっていたので、や はり特攻隊員の遺書と大同小異のことしか書けなかった。こうして兵士が前線で 書いた遺書は、可能な限り部隊から出身市町村の役場に送られ、そこで厳重に保 管した上、もしも遺言の主が戦死した場合、その遺書を戦死公報に添えて遺族に 手渡すという仕組みになっていたのである。戦後になってから、私は寝屋川市史 の編纂にたずさわったのだが、もと兵事係だった吏員が、いまだにこの種の遺書 をたくさん抱えているのを見掛けたことがある。
ところで、特攻平和会館を訪れた人の多くは、特に婦人の客は、隊員の遺影を 見、遺書を読んで、目頭を熱くしたり、ハンカチで涙を拭ったりしている。それ は遺書の多くが、母親に切々と別れの言葉を述べているからである。中には継母 だった人に対して、今まで一度も「お母さん」と呼べなかった自分を許してほし いと書いている十八歳の少年飛行兵がいた。死を目前にした特攻隊員にとって、 誰よりも懐かしく思われ、誰よりも別れ難く思われたのは母親だったのだ。そし て隊員は知っていた。いかに非情な軍隊といえども「お母さん、長い間お世話に なりました。先立つ不幸をお許しください」という遺書の言葉にだけは、文句の つけようがないことを……。だからこそ隊員たちはこぞって、この言葉に文字通 りの「万感」をこめたのである。表だって書けないことを、すべてこの言葉の中 に埋め込んだのである。
 私が思うに、特攻隊員の遺書を見て感動している人たちは、決して「大日本 帝国万歳!」とか「鬼神となりて米英を撃滅せん」とか「靖国神社でお会いしま しょう」といった勇ましい言葉に、心を打たれているのではない。この会館へ団 体の観光客を案内してくるガイドさんも、このことはよく心得ていると見え、特 に肉親を思う情をこまごまと述べた遺書をピックアップして読み聞かせては、こ れを書いたのはこの人ですと、遺影を指さしてみせる。すると婦人客の中には、 思わず声をあげて泣きだす人が出てくる始末だ。
 実は私も石川県出身のある隊員の母が、特攻出撃を目前にした息子に当てた 次のような手紙が、遺影の下に掲げてあるのを見て、涙が止まらなかった。
「ばくだんかかへて行く時は必ずわすれまいぞ。ナムアミダブツととなへてく れ。これが母の頼みである。これさえ忘れないで居てくれたら母はこの世に心配 事はない。忘れないぞ、となへてくれ。こん度会ふ時はアミダ様で会ふではない か。これがなによりも母の頼みである。忘れてはならないぞ。母より」
 原文は句読点もなにも打ってなく、字も下手な稚拙な手紙である。けれども 二十二歳の息子を死地に追いやる母の悲しみと苦悩が行間にも紙背にも滲み出て いる。この母は息子に対して、国のため天皇陛下のために立派に死んでおくれ、 などとはこれっぽちも言っていないのだ。
 ところで、このフロアには他にも色々のものが展示してある。戦時中、知覧 には軍が指定した二軒の旅館と一軒の食堂があったらしく、その模型がおいてあ った。これらの旅館や食堂は特攻隊員とその家族にもよく利用されたという。な かでも有名なのは「特攻おばさん」と呼ばれた島浜トメさんが経営していた富屋 食堂である。ここでトメさんは親身になって特攻隊員の世話をした。また死にゆ く隊員と残される家族の哀切きわまりない最後の対面も、トメさんは何回となく とりしきった。その彼女を取り巻いてにこやかに笑う特攻隊員たちの写真が、フ ロアに掲げてあった。
 また地元の知覧高等女学校の生徒たちも、軍の要請で特攻隊員が起居する兵 舎に出入りして、洗濯や清掃などの世話をやいた。出撃する特攻機を泣いて見送 った。また彼女たちは遺族に隊員から託された遺書を送ったり、また出撃の模様 を知らせたりした。フロアにはモンペに下駄履きといういでたちで、満開の桜の 枝をふりかざして、今まさに飛び立とうとする特攻機を見送る乙女たちの写真が 掲げてある。
 戦後になってから、島浜トメさんや知覧高女の生徒たちは、自分が目撃し接 触した特攻隊員やその家族の言動を証言したり、記録に残したりしている。こう したところからも、特攻隊員とその家族の悲愁と苦悩と、彼らをむざむざ死地に 追いやった指揮官らの非情さがありありと浮かび上がってくるのである。
 会館にはメイン・フロアの他に海から引き揚げた特攻機を展示したり、沖縄 戦に於ける特攻隊の活躍をビデオで見せたりする別室もあって、私はここで半日 たっぷり費やしてしまった。ふと見ると机の上に来館者が自由に感想を書き込め るノートが置いてあったので、ぱらぱらと頁をくってみた。するとそこには大別 して、次のようなことが書いてあった。
「特攻隊員のような凛々しく健気な若者たちがいたおかげで、今日の経済大国 日本の姿があるのです。特攻隊員のみなさんに心から感謝し合掌いたします」「 ここに来て身のひきしまる思いがしました。祖国のため惜しげもなく生命も青春 も投げ出した特攻隊員に比して、今の私達のダラダラした生活が恥ずかしい」「 特攻で戦死した兄の写真と対面して泣いてしまいました」「オレにも特攻隊のよ うに、どっかへグワンと突っ込ませろ!」「日本は侵略戦争をしたとか、靖国神 社参拝反対などとほざいている非国民どもは、ここに来て特攻隊員の英霊の前に ひざまずけ」「特攻隊員は皇国史観、軍国主義のスケープゴートなのに、それを 英雄扱いしている知覧特攻平和会館のありかたに疑問を感じた」「特攻隊をうみ だした当時の指導者は無能で無責任だった。今の政治家も同じ穴のムジナだ」「 ここにきて戦争のむごたらしさ、馬鹿らしさを知りました。戦争はイヤです。フ ランスの核実験反対」。これら自由に吐き出された意見には、こんにちさまざま な戦争観を持つ老若男女の思いがそのまま反映されているとみていいだろう。

     四、
 
 胸に大きな重石をのせられたような沈鬱な気分で特攻平和会館を出た私は、 レストランで一息いれてから、更に平和公園内の他の施設を見て回ることにした 。
野球場の近くに赤い屋根の小さな観音堂があった。ここに特攻観音といわれる 、法隆寺の夢違観音を模した金銅仏が安置され、その胎内には知覧飛行場より出 撃した特攻隊員の氏名を列記した巻物が納められているという。
 そしていま観音堂の裏手には、百数十基からの例の「特攻灯籠」が所狭しと 立ち並んでいる。この観音堂が建立されたのは昭和三十年(一九五五)だという から、戦後十年にしてようやく知覧では特攻隊員の霊を慰めようという気運が起 こってきたことが分かる。
 一九五〇年代といえば、はじめにサンフランシスコ講和条約が発効、国連へ の加盟などがあり、日本経済はおりからの朝鮮戦争特需によって立ち直り、新た な発展の道をたどりはじめる時期である。国民の間では、敗戦とアメリカ軍の占 領がもたらした自信喪失や対米コンプレックスを次第に克服していくのだが、冷 戦下、再軍備が進み、逆コースの風潮も高まってくる。読書界では、戦後文学の 最重要テーマとして戦争や軍隊の暴虐と不条理を暴露してきた反戦小説にとって かわって、「大東亜戦争肯定論」の立場から、陸海軍将兵の果敢な奮戦を称える 戦記ものが歓迎されるようになってくる。特攻隊の活躍を描くドキュメンタリー や映画も出てくる。
 陸海軍の特攻戦死者についてみれば、戦時中は「神鷲」と新聞などでもては やされ「軍神」扱いだったものが、敗戦後は一転して「犬死にした馬鹿者」呼ば わりされたり、「神風タクシー」という言葉にみられるように常軌を逸した連中 同様に扱われたりして、遺族をして大いに嘆かしめたものだが、ナショナリズム が復権するにつれて「祖国愛に殉じた勇者」として再評価されるようになってく るのである。
 さて特攻観音堂の近くに、小さな護国神社があるが、その境内にも参道にも 石灯籠があふれている。それらの灯籠の色や形によって、古いか新しいかがすぐ 分かるのだ。その中の一つ、石の色が既に褐色に変わってしまった古風な灯籠の 竿には「弟よ、ここに翼を休めて静かに眠りなさい。ようやく終戦を迎えること ができましたから」という文句が掘ってあった。これでみると知覧の石灯籠はは じめごく少数の遺族が寄進していたものが、後に特攻隊員を輩出した航空各部隊 の戦友会、あるいは遺族や縁者がそれに続くようになって俄に増えてきたものの ようである。そして今では町役場の手で例の「特攻灯籠」を増やす計画が推し進 められていることは、先に述べた通りだ。私はこうした人柱じみた石灯籠をしみ じみと眺めているうちに、なにも戦争で死んだのは特攻隊員だけではないのだか ら、全国の市町村も知覧町に見習って「わがまちの戦死者」の数だけ目抜き通り に「兵隊灯籠」を建てたらいいのにと思った。そうすれば日本国中がアジア太平 洋戦争の戦死者二百四十万の兵隊灯籠だらけになってしまって、戦争というもの がいかに大きな犠牲を強いるものかを、若い人たちに端的に教えることが出来る というものだ。
また平和公園内には昭和四十九年(一九七四)に建てられたという、飛行服に 身を固めた特攻隊員の銅像が、はるか沖縄の方をむいて立ちつくしている。そし てそこにも日の丸の印をつけたプロペラ式の戦闘機が一機おかれている。しかも その傍らにはこの特攻隊員をじいっとみつめて佇む、モンペ姿の母の銅像も建て られているのだ。つまり「愛国の勇士と特攻機と慈愛に満ちた母」がペアになっ ているのだ。いったいこうした組み合わせは、誰が思いついたのだろう。特攻隊 員の像と戦闘機の組み合わせなら一応納得できるが、なぜここに母の像を持って こなければならないのか。それは特攻隊員の遺書の多くが母への思慕をあらわに していることに、あるいは着物にモンペ姿で特攻出撃を見送った母が実際にいた ことに由来しているのかも知れない。だが、特攻隊員と特攻機の間に「母」がし ゃしゃり出ることによって、たちまちこれは「お涙頂戴の構図」と化してしまっ て、特攻の本質がどこかに隠れてしまっていないだろうか。
 私の言うことがおかしいと思うなら、この母の像の代わりに、宣戦布告の詔 勅を発しながら、これっぽちも戦争責任をとらずに八十八歳の天寿を全うした、 昭和天皇の像を置いてみるがいい。ところが天皇の像など恐れ多くて、とてもそ んな真似は出来ないというのなら、特攻隊員に十死零生の残酷きわまる出撃命令 を下し、エンジンの不調や不時着その他の理由で飛行場に舞い戻ってきた隊員に は不忠者呼ばわりしたり、殴打を加えたりして、その隊員が完全に死ぬまで何度 も出撃をやり直させていた傲慢な参謀の銅像にしてもよろしい。さすれば誰の眼 にも、特攻隊というものの実体が少しは見えてこようというものだ。
 特攻関係の資料を漁っていると、特攻攻撃を発案したのは、参謀本部の誰そ れだったとか、いや、海軍のなんとか中将だったなんてことがよく書いてある。 だが私に言わせれば、特攻隊なんてものは、航空隊だけにあったものではない。 私など歩兵部隊の兵士も、アンパンと称する爆薬を抱いて、迫り来る敵の戦車め がけて突っ込む訓練を、いやというほど受けさせられたものだ。幸いにして中国 戦線では、敵の戦車を見掛けなかったので、特攻攻撃をやらずにすんだだけだ。 要するに日本軍の下級兵士は、全員が特攻隊要員であり、消耗品だったのだ。敗 色濃い戦争末期ともなれば、陸海軍とも必死になって特攻攻撃用のさまざまな兵 器を工夫している。戦闘機に偵察機に爆撃機、はては練習機にまで爆弾を積んで 敵艦に体当たりするというものを筆頭に、一人乗りの人間魚雷、特攻ボート、ロ ケット推進の人間爆弾などなど。よくもまあこんな人命軽視の兵器を作れたもの よと、ただただ呆れる他はないしろものばかりだ。けれど、この中で素人目に一 番カッコよく写るのは、飛行機による特攻攻撃であろう。
 軍国主義華やかなりし頃は、同じ軍人でも飛行機乗りは若者の憧れの的だっ た。特に少年航空兵になるのは、軍国少年の夢だった。しかし、航空兵を志願し た連中は、自分たちは飛行機に乗って何をするのかといったことを、明確につか んでいただろうか。華々しい空中戦により、何機もの敵機をやっつけた撃墜王の 話などは聞いていたかもしれない。だが、編隊を組んで敵国の都市を爆撃して、 一挙に何百何千という市民を死に追いやり、家を焼き払うといったイメージは、 持っていなかったのではないか。私は中国の上海や重慶を日本軍が無差別爆撃し て甚大な被害を与える場面を映画で見て、そのようなことを考えざるを得なかっ た。いや、こうしたことは日本軍ばかりではない。広島や長崎に原爆を投下した アメリカ空軍の将兵も、無辜の人民を大量虐殺する任務につくと知って、飛行兵 を志願したのではないはずだ。私はこうしたところに、飛行機というものが持っ ていた魔性、あるいは落とし穴というべきものがあったと思うのだ。
 特攻隊員になった連中も、特攻隊に参加したいために飛行兵になったのでは あるまい。やはり大空への漠然たる憧れから、航空隊を志願したものと思われる 。それが戦局の推移につれて、いつしか特攻隊員にされてしまったのだ。そして 陸海軍とも飛行兵といえども、上官から陰惨なリンチを受けていたことは、私の ような歩兵部隊の兵士となんら変わりがなかったのだ。まだ十五や十六の少年航 空兵たりとも容赦されなかった。はっきりと死ぬことがきまった特攻隊員にすら 、基地の参謀などは鉄拳をふるっていたのてある。
 漠然とした大空への憧れから、飛行機の操縦士はもちろんのこと、スチュワ ーデスといえどもカッコがいいのだという考え方は、こんにちの日本人男女の中 にも根強く息づいている。そこから、特攻隊というものを美化してながめる風潮 が、生まれてくるのである。
 たしかに飛行機に爆弾を積んで敵艦に体当たりするのは、歩兵が敵陣に銃剣 をきらめかして突撃するのより、はるかにカッコがいいように見える。特攻隊を 描いた映画などみると、参謀と別れの水杯を交わした後、日本刀をひっさげて戦 闘機に乗り込み、純白のマフラーを風になびかし、見送りの整備兵らに手をふり ながら出撃していく場面など、もうたまらない。見ていて身体がぞくぞくしてく る。
 ところで、今まで私は故意に書かなかったのだが、実は知覧特攻平和会館の フロアには、一台の古風なグランドピアノが飾ってあるのだ。なぜかというと、 知覧とは別の九州の基地にいた音楽学校出身の特攻隊員が、出撃前にグランドピ アノが置いてある小学校に立ち寄り、女教師の前で『月光』の曲を弾いていった という事実があったからだ。この話は数年前にマスコミの知るところとなり、ラ ジオで放送されたり、『月光の夏』という映画になったりして多くの人々を感動 させたのだった。ああ、特攻隊員とピアノ。それは『平家物語』で熊谷次郎直実 に首をはねられた弱冠十七歳の公達、平敦盛が小枝と称する名笛を肌身離さずも っていたという、日本人好みの、いや日本人泣かせの挿話に似ているではないか 。
もっとも映画『月光の夏』は、こうした特攻隊員のエピソードだけを感傷的に 描いたのではない。特攻出撃したものの、エンジン不調や不時着その他の理由で 基地に引き返した隊員たちを、福岡にあった「振武寮」という所にひとまとめに して軟禁していたという軍の秘密事項をも暴露して、観客に衝撃を与えたのだっ た。彼ら特攻隊員は、いったん隊員に指名された以上、絶対に逃れる道はなかっ たのだ。もしも逃げたら「陸軍刑法」による敵前逃亡罪で死刑になるかも知れな かった。これは私のように中国大陸の前線にいた兵士も同様だった。だから特攻 隊の問題は、みせかけのカッコよさに幻惑されることなく、あくまでも日本軍全 体の中の一現象として、追求しなければならないのだ。それにつけても知覧から 特攻出撃しながら、恋女房への未練からか三度もとって返し、参謀に卑怯者と罵 られたあげく、四度目に特攻機もろとも故郷の村に突っ込んで死んだ川崎少尉( 鹿児島県出身)の事績は、今や世間周知のことであるにもかかわらず、前記「振 武寮」の存在ともども、特攻平和会館では全然取り上げていないことにも、注目 する必要があろう。つまり知覧特攻平和会館は、確固とした反戦平和の理念から 、特攻隊に関するあらゆる資料を集めて、その本質を追求するところではなく、 むしろ特攻をダシにした観光施設の色合いが濃い所と言わざるを得ないのだ。

 



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