学校道で私を待っていた人


                        

     一
 私が友呂岐小学校(今の寝屋川市立北小学校)に入ったのは昭和四年(一九二九)のことです。私の家がある平池集落から学校まで、一六五〇メートルの道のりがありました。なぜ未だにこんなにはっきりと数字を覚えているかというと、先生から「学校道(当時は通学路などとは言いませんでした)」の長さを、しっかりと教えこまれたからです。
 雨の日も風の日も、この学校道を歩いて通いました。もちろん当時の道路は舗装されておらず、道幅もそんなに広くありませんでした。そのかわり、はだしで歩いても足があまり痛まないばかりか、ひんやりとした土の感触が心地よい、まことに人にやさしい道でした。道で行き交うのは自転車か、牛に曳かせた荷車ぐらいのもので、自動車はめったに通りませんでした。したがって子供が交通事故に遭うなんてことも、絶えてありませんでした。
 私の家は昔から平池集落に住みついてきた百姓家で、大きな藁葺きの屋根を持つ母屋に、荒壁仕上げの土蔵と納屋がついていました。集落のほとんどは農家で、H家という近郷近在に聞こえた大地主の土地を借りて耕す、いわゆる小作農をしながら、細々と生計をたてていました。その他には、小地主や自作農を兼ねて学校の先生や、村役場の吏員などをしている家が、一握りあるだけでした。
 私は絣の着物に三尺帯をしめ、肩から斜めに布製の鞄をぶらさげ、全部がゴムでできた短靴(今この靴は見たくともありません)をはいて通学していました。学童服にランドセルという、当時としては珍しい、ハイカラな恰好をした子供は、香里園の新興住宅地から通ってくる者の中に少しいるだけで、農家の子供たちはたいてい着物姿でした。私がはじめて学童服なるものを着せてもらったのは、なんと小学六年生の修学旅行で伊勢へ行くことになった時でした。でも、私は元気溌剌とした子供でした。医者に手を握ってもらったことなど一度もなく、いつもガキ大将どもと一緒に、村中を走り回っていました。

    二
 小学校へ行くには、集落の北のはずれに出なければなりません。そこはちょっとした峠のようになっていて、麓には弘法大師が掘ったという綺麗な水が絶え間なく噴き出している泉がありました。清水坂という名の長い坂道をのぼりつめると、大きなマツやクヌギやカシなどがある雑木林があって、その間を近くの山に水源を持つ一筋の天井川(寝屋川)が流れていました。この川に架かる極楽橋という橋を渡って、峠の上に立つと、今度は道が長い下り坂になって、その先に小学校の大きな屋根が見えてくるのでした。
峠から小学校までの一本道に沿って、淀川から枝分かれした別の川が流れており、それにつながる大きな池が三つもありました。そのまわりは見渡す限りの水田地帯で、人家は一軒も見当たりません。そうです、私たちの小学校自体が広々とした田んぼの中に、ひとりさびしく建っているというありさまだったのです。こうした環境でしたから、私たちは、学校への行き帰りにする道草の材料には事欠きませんでした。
 夏の朝の登校時には、半時間も早く家を出て、われ勝ちに峠の雑木林に分け入って、カブトムシやクワガタムシを探しだすのです。子供の一人一人がテリトリーをもっていました。私は、かなりきつい斜面で、しかもよく繁った笹をかきわけて進まないとたどりつけない、大きなクヌギの木を専用の穴場にしていました。そこへ行くと、木の肌にべっとりと垂れ流された甘酸っぱい樹液に、黒々とむらがっている幾種類もの昆虫が見つかるのです。友だちの誰もが持っていないような、でっかいクワガタムシを見つけた時の、胸のときめきをいまだに忘れられません。
 また道端でよく青大将という、毒をもたない蛇をつかまえました。たいていみんなでよってたかって、なぶり殺しにしてしまいましたが、たまにはこいつを着物のふところに忍ばせて、何喰わぬ顔で教室へはいり、いきなり女の子の足許に這わせるといういたずらをやらかしました。ある日、このいたずらが女の子たちの注進で先生の知るところとなり、私はガキ大将仲間とともに、職員室でべそをかきながら二時間も立たされたことがあります。
 また学校の帰りには、フリチン(パンツを脱いでしまうこと)になって川へ入って泳いだり、フナやモロコやカラス貝をとったりしました。川岸につないである田舟に勝手に乗りこんで、池の真ん中まで漕ぎ出し、そこに咲きみだれている見事な蓮の花を、手に持ちきれないほどとったこともありました。また農家の人が、水田の肥料とするために、あぜ道にずらりと整列させておいたコエタゴ(人糞をいれた桶)を、足蹴にしてひっくり返してしまうという、ひどいいたずらもやってのけました。
 要するに私の小学校時代は、勉強などそっちのけで、学校道の行き帰りにする道草が面白くて面白くてたまらなかったのです。また当時の農家の親たちもよくしたもので、子供に、遊んでばかりいないで勉強しなさい、と言って叱る人など、めったにいなかったようです。

     三
 こうした私の小学校時代に、未だに忘れられない思い出が一つあります。それを思い出すたびに、私の胸にかすかな痛みが走るのです。
私が二年生か三年生になった時です。時々、私が学校から帰ってくるのを、学校道のそばの田んぼに佇んで待っている人があるのに気付きました。その田んぼは学校からものの五分も歩いたところにあり、近くを川が流れ、小さな橋がかかっていました。
 その人は六十歳前後の背の高い男の年寄りで、日々の野良仕事で焼けた赤銅色の肌を持っておりました。鼻は高く、すこし鋭い目つきをしていましたが、その人は胸先に持ってきた鍬の柄に少しよりかかるような姿勢をとりながら、私の顔をじいっとみつめてくるのでした。その顔には、かすかな笑みを浮かべていましたが、なにもものは言わなかったように思います。いや、なにか短い言葉でもって、私に語りかけてきたこともあったのに、私の記憶にないだけかもしれません。
 私は学校の帰りも、いつも三、四人の友だちと連れだって歩き、今日はどんな種類の道草をしようかといったことで頭がいっぱいでしたから、ほとんどその人の存在を無視していました。そして、その人が何者なのかを、ちっとも詮索しようとはしませんでした。けれども、不思議なことには、その人の顔をみると、なんだかきまりが悪くなってくると同時に、なにか温かいものでふんわりと身体を包みこまれたような気持ちになってくるのでした。
その人は夏は水田の草取りをしながら、私の帰りを待っていました。秋の収穫期には黄金色の実をつけた稲を刈りながら、私の帰りを待っていました。冬には麦踏みをしながら、私の帰りをまっていてくれました。春には満開の菜の花の中から、私に微笑みかけてくるのでした。 いつしか私もその人の顔をみると、ぺこっと頭を下げるようになりました。するとその人はいかにも嬉しそうな顔になって、何度も大きくうなずいてみせるのでした。ところが、この人が何者なのか、私には一向に分かっていませんでした。
 家へ帰ってから、父にこの人のことを告げれば、あるいはこの年寄りがどういう人か分かったかも知れません。でも私は、この人のことを家族の誰にも言いませんでした。なぜだか子供心にも、この人のことは私一人の胸に秘めておかねばいけないような気がしていたのです。
 けれども私が小学校を卒業する頃には、その人の姿はいつしか見えなくなってしまいました。それでも私は、あまり気にとめませんでした。
 長ずるにつれ、その人のことは時々思い出すことはあっても、その人の正体を突き止めようとしたことはありませんでした。
 ところがあれから半世紀以上もたった今頃になって、しきりとその人の面影が思い出されてならないのです。そして私なりにあれこれ調べてみたところ、どうやらその人は、私にとって母方の祖父だったようなのです。
 私の母は淀川べりにある集落から平池集落へ嫁いできていたのですが、私が五歳の時に亡くなったのです。そのため父はそれから二年後に、後妻(私の継母)を迎えたのでした。今にして思えば、私の父は再婚したのをきっかけに、先妻の実家との交際をすっかり絶ってしまったようなのです。そのため、私の母方の祖父は自由に孫の顔を見ることができなくなり、その寂しさをまぎらすために、学校道のそばにある自分の田んぼに佇んでは、私が通るのをじいっと待っていたようなのです。それならそれで、この人は私をつかまえて「わしはお前のおんじゃん(祖父)だよ。お前のおかん(母)のおとっつあん(父)だよ」とはっきり教えてくれたらよさそうなものを、それをしなかったのです。
 この祖父と私の父の間になにがあったのか知りませんが、父はその生涯で私にただの一度も、実母の家のことを、いや実母そのものについてすら何一つ語ってくれたことがないのです。ましてこの母方の祖父のことなど、何も私に教えてくれませんでした。こうしたことから、母方の祖父は、私の顔をみても、わざと自分の身分を明かさなかったのかも知れません。孫の顔を見たさに自分が学校道で私が通るのをひそかに待っていることが、私の父や私の継母に知れるのを、そして、万一私に迷惑がかかるのを、祖父は恐れていたのかも知れません。
 祖父にしてみれば、隣村に嫁がせた娘が、三十代の若い身空で、幼い子供を残して死んでしまったことを、どんなにか不憫に思ったことでしょう。そして、その忘れ形見をどんなにいとおしく思ったことでしょう。けれども娘の嫁ぎ先に後妻が来て、婿との交流もぱったりと絶えてしまってからは、孫の顔を見ることもままならなくなってしまったのです。
 残念ながら私の記憶に全然ないのですけれど、母は幼い私を抱いて何度か里帰りをしているはずです。その時、母方の祖父や祖母は私を親しく抱き上げてくれたはずです。
 また一方、私の生家の祖父や祖母のこともほとんど記憶にないのです。二人とも早く死んでしまったからです。つまり私は、父方の祖父母も母方の祖父母も、よく知らないで大きくなった人間なのです。
 どうして私は、今頃になって、こうしたことに思いを馳せるのでしょう。実は私には二人の息子と四人の孫があるのです。そのため私にも、孫に対する祖父の気持ちというものが、身にしみて分かるようになっているのです。私の孫たちは、それぞれ父方の祖父母も母方の祖父母も健在なので、どちらへ行っても随分と可愛がって貰っています。
 その姿を見るにつけ、私を何度となく学校道で待ってくれていた祖父のことが思い出されて、胸が痛くなってくるのです。今の私がもしもこの人の立場にあったなら、誰はばかることなく、学校道で可愛い孫を力いっぱい抱きしめてやったのにと思うのですが、明治男の祖父にはそれができなかったのでしょうね。


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