大久野島へ

     

    一
 1997年末、広島方面へ二泊三日の小旅行を試みることにした。まず芸予諸島の一つである大久野島へ行き、ついでに広島平和記念資料館へも立ち寄るつもりだ。
 一二月二〇日。新大阪駅から「こだま」に乗って三原まで行き、呉線に乗り換えた。呉線は昔ながらの野暮ったいローカル線だ。私は若い頃、呉海軍工廠の徴用工として強制的に働かされた経験があるので、今でもこの方面にはあまりいい感じを持てないでいる。にもかかわらず、時々こうした嫌な思い出がある所へわざわざでかけてみたいという、われながら訳の分からぬ衝動にかられるのだ。
呉線では忠海という小さな駅で降りた。ここから大久野島と大三島へ通うフェリーが出ている。私は日頃潮の香りなどめったに嗅がない暮らしをしているので、小さな船がいっぱいたむろしている忠海港に出ただけで、もう心が浮き浮きしてきた。
フェリーでは少し寒かったけれど、私はわざわざ甲板に出て、大きくうねる波や、視界に飛び込んでくる大小いくつもの島影を、さも物珍しげにとらえたものだ。大久野島は竹原市忠海町の沖合三キロの地点にあり、ものの十五分もすれば船は桟橋に着いてしまう。
この島は周囲わずか四・三キロメートル、面積は七〇ヘクタールしかない。その大部分が雑木林が覆う丘陵地帯で、最高点の標高は約一〇〇メートル。頂上から緩やかな稜線が海岸に向かって降りてきており、平坦部はいたって少ない。丘陵の上には、中国と四国を結ぶ送電線をささえる高さ二二六メートルの、なんでも世界一とかいう大鉄塔がそびえ立っている。
 戦前ここに陸軍の巨大な毒ガス製造工場があって、島全体が軍事機密のベールでおおわれていた。日本の敗戦により、ようやくそのベールが剥がされたのだった。
 一九六三年(昭和38)政府はここを国民休暇村として、宿泊施設をはじめ、海水浴場、キャンプ場、テニスコート、レンタサイクリング、魚釣り場などの設備を整えた上、一般に開放した。つまり大久野島は不気味な毒ガス島から風光明媚なレジャー島へと一大変身を遂げたのだった。そして今は、年間十五万人からの客が訪れるピクニカルアイランド(竹原市観光協会のネーミング)となっている。
 私がここへ来たのは、毒ガス資料館という戦争博物館をはじめ、毒ガス工場の遺跡をじっくり見たかったからだ。こうした目的を達するためには、観光客が少ないシーズン、それも年末という時期を選んだ方がいいのではないかと考えた。こうした私のねらいは、見事に的中した。島内は実に閑散としている。しかも天気晴朗、風も穏やかで、この季節にしては暖かい日和という得難い条件も加わった。
 私はリュックを背負った数名の中年婦人のグループと一緒に島へ上陸したのだが、意外にもいきなり十数匹のウサギの歓迎を受けた。白色に褐色、それに黒色のやつもまじっていて、いっせいにピョンピョン跳ねながら足許に走り寄ってきたかと思うと、ひょっこり後ろ脚で起ち上がって、しきりに餌をねだるのだ。こんなウサギの仕草を、今まで一度も見たことがない。
「まあ、かわいいこと! でもかんべんしてね、今はあんた方にあげるものをなにも持ってないのよ」。婦人たちは顔をほころばながら、しきりにウサギに話しかけている。「ここにはウサギがたくさんいるようね。まるで奈良公園の鹿のようによく人に狎れているわ」「どうしてこの島にウサギがいるのかしら」「不思議だわ」。こうした会話を小耳にはさみながら、私は手持ちの資料の中に、むかしこの島の毒ガス工場では、ジュウシマツとウサギを飼っていたと書いてあったのを思い出した。ジュウシマツは鳥籠に入れて、青酸ガスの工室などに置き、ガスに敏感な生き物の動きで、危険度を検知していた。小鳥は毒ガスにあたると、たちまち悶絶してしまうのだ。
 ではウサギはなにに使っていたのだろうか。毒ガスの効力をためすモルモットにしていたのではなかろうか。ガラス張りの実験室の中へ次々と入れられたウサギが、大久野島で生産されていた各種各様の毒ガスをかがされて、痙攣を起こしている様が眼にうかぶ。こんにち獣保護区でもある大久野島に住みついて、自由自在に走り回っている無数のウサギたちは、きっと毒ガス工場で飼育されていた往年の哀れなウサギの後裔に違いない。

    二
 時計をみると午後三時。私は国民宿舎にチェックインするのを後回しにして、とにかく桟橋にほど近い「大久野島毒ガス資料館」を見せてもらうことにした。そう大きくもない、赤煉瓦造り平屋建ての瀟洒な建物である。受付の女の人が一人いるだけで、見学者も私一人だけだった。
 展示室へ入ると、一九四四年(昭和19)頃、つまり毒ガス製造がピークに達していた頃の地図がかかげてある。それを見ると、工場は島の西部と南部のたいして広くもない平坦地に集中して建てられている。そして東南部の一角には発電所がある。稼働中の工場の写真も展示されていたので、当時の島の様子を知ることができた。鉄筋コンクリート作りの大小各種の工室と倉庫、それにタンクが、海岸沿いにところ狭しと建ち並んでいて、幾本もの煙突がもうもうと煙を吐き出している。なかなか盛んなものだ。ここで軍人、職員、普通工員、徴用工、学徒動員された女学生、中学生、女子挺身隊、勤労奉仕の婦人など三〇〇〇人を下らない人間が、毒ガス製造に従事していたというから驚きだ。
 この毒ガス工場は、正式には「東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所」といって、早くも一九二九年(昭和4)五月に開所式をあげている。軍は古くからこの島に住みついていた数軒の農家を陸地に強制移転させた上、工廠を造ったのだった。当時の社会は不景気のどん底にあったので、忠海町とその近傍の人々は、この時ならぬ工場建設ラッシュを大歓迎した。われもわれもと先を争って大久野島へ働きにでかけたという。そして工廠ができあがると、みんなは競って工員になろうとした。他と比べて、給料がずば抜けてよかったからだ。この時、人々はここが世にも恐ろしい毒ガスを造る工場であり、ここで働く者のほとんどが、後に生涯癒えることのない毒ガス障害者となって苦しまねばならない運命が待ちかまえていようとは、神ならぬ身の知るすべもなかったのである。
 展示室にはまた、作業中にイペリットという糜爛性の猛毒ガスが極微量付着しただけで、首筋から背中にかけて皮膚が大きくただれ、しかも鶏卵のように大きな水疱がいくつもできた工員の生々しい傷害写真がかかげてあった。私はこれを見て、今更のように毒ガス工場で働くことがいかに恐ろしいものであったかを知り、ふるえあがってしまった。
 こうした毒ガスによる傷害を防ぐために、当時の工員は大きな眼鏡のついた防毒マスクをかぶり、全身をゴム製の防毒衣に防毒袴、それにゴム手袋、ゴム長靴ですっぽりとつつんで作業をしていた。それと同じ姿をした人形が置いてあったが、これではまるでタコの化け物を見るようだ。しかし、こうした重装備をしても毒ガスは防毒衣のわずかな隙間から容赦なく侵入したり、ゴムを浸透したりして、工員に急性、慢性の傷害を与えたのだった。特に陰部とか、脇など皮膚の弱いところがただれる率が高いので、男子工員は「睾丸袋」というグロテスクなものを装着していた。
 陳列ケースには、他に数種の防毒マスクも置いてあった。その中には、私が日中戦争従軍当時、携行を命じられていた防毒マスクとよく似たものもあった。陶器で造られた大小様々な形の毒ガス製造器具も無造作に並べてある。ニシキヘビがとぐろを巻いているような太い管がついた大きな陶缶。口がいくつもある大きな甕。いずれも何に使っていたのか私のような素人には分からないが、これで毒ガスを造っていたのだと思うと不気味な感じがした。
 島内には陸軍技能者養成所という高等小学卒業者を入学させて、中堅工員に育てあげる学校があったらしく、その卒業式の写真が掲げられていた。この学校に入ると今後二十年間はここで働くことを義務づけられ、工場で何を造っているのかは絶対に口外しないことを誓わされたという。また毒ガスは銃砲に比して、敵に致命的な損傷を与えない「人道的な兵器」だなどという教育が、まことしやかにおこなわれていたという。
 また戦争が終結した時、進駐してきたアメリカ軍や英連邦軍の指揮で、島内に貯蔵されていた大量の毒ガスを廃棄し、工場の諸設備を根底から破壊する作業が行われたことを示す写真も展示されていた。アメリカ軍が使用していたLSTという上陸用舟艇に毒ガスを満載して高知沖に曳航し、船ごと爆破して沈めるといった方法がとられたのだった。こんにちこんな乱暴なことをすれば大変な騒ぎになるのだが、終戦後のどさくさにまぎれて、恐るべき海洋投棄が平然と実行されていたのだ。また工場や倉庫などは、火炎放射器を使って焼き払う方法がとられた。工場や倉庫、タンクなどがすさまじい黒煙をあげて燃えている写真もあった。
 この作業には三〇〇人からの日本人が従事したらしいが、いずれもひどい毒ガス傷害をこうむっている。毒ガスはそれを製造する際に、多大の危険がともなうことはいうまでもないが、廃棄する時はそれに倍する危険が生じるものらしい。ところが作業を指揮した占領軍将兵にも、そうした知識の持ち合わせが十分でなかったため、多くの犠牲者をだすことになったのだ。
 資料館の豊富な展示物をあれこれ見て回っているうち、ふと私はあることに気づいて慄然とした。それは大久野島の毒ガス工場には、各地から集められた徴用工が多数働かされていた事実があることだ。当時、国家総動員法による徴用令という法律があって、役場から「何月何日、お前はどこそこの工場へ行け」という命令が届けられると、否が応でもそれに従わねばならなかった。兵士を有無を言わさず戦場に引っぱり出す赤紙(召集令状)に対して、これは青紙召集と言われていた。これにそむくとたちまち憲兵隊か警察に勾引されてしまうのだ。
この毒ガス工場に引っぱり出された徴用工たちは「東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所へ行くべし」という命令を受け取った時、「忠海」というのがどこにあるのか分からず、とにかく「東京」へ行けるものと勘違いして喜んだという。これは笑えない話だ。
 私の場合、十九歳の時「呉海軍工廠へ行くべし」という命令を受け取ったのだった。その時、私も「呉」というところ「海軍工廠」というところがどんなところか全然知らないまま、甚だ心細い思いで列車に乗ったものだ。
 今にして思えば呉海軍工廠は実に嫌なところだったが、この毒ガス工場よりははるかにましな職場だった。あのとき私が呉の方へ徴用されて、この大久野島へ徴用されなかったのは、たんなる偶然の仕業に過ぎなかった。
もしも私がこの島で働かされていたら、今頃どうなっていただろうと思うと、もうこれ以上資料館の中にとどまっている気にはなれなかった。私は逃げるように資料館のドアを開けた。

    三
 毒ガス資料館のつい近くに「大久野島毒ガス障害死没者 慰霊碑 広島大学医学部長 西本幸男書」と記した自然石の大きな碑が建っている。そのそばに次のような文言を彫り込んだ碑も建てられている。
「化学兵器は無差別かつ広範囲に人間を殺りくすることでは核兵器・生物兵器と同じであるから、ただちに廃絶されなければならない。ここ大久野島には、かって東京第二陸軍造兵廠忠海製造所があり、国際条約で禁止された毒ガスを密かに製造していた。工員・徴用工・学校・勤労奉仕ほかの人々は、働いているときはもとより、仕事をやめた後も呼吸器などの毒ガス障害に悩まされ、癌の恐怖におびえた毎日を送っている。死没者はすでに千名を超えたが、その多くは毒ガス障害の解明のため身をささげ、国からの救済の道を開くべく、その礎となった人々である。ここに毒ガス障害による死没者の冥福を祈って慰霊碑を建立し、再びこのような不幸なことを繰り返さないよう広く世界に警告する。
 昭和六十年五月十二日 竹原市長 森川繁喜」
この慰霊碑が建てられた時点では、毒ガス障害による死没者は千名であったが、それから十年後の九五年九月には二千百二十人となっている。このように死没者の数は年を重ねるごとに増えているのだ。慰霊碑の文字を広島大学医学部長が揮毫しているのは、この大学出身の医師たちが、一九五二年(昭和27)より今日に至るまで、一貫して毒ガス障害者の調査と医療にあたってきたからである。
いま公立の忠海病院には、毒ガス工場で働いていた約六千六百人のうち、入通院した約四千二百人の患者のカルテが保存されているという。毒ガス障害者の主要死因は悪性腫瘍が圧倒的に多く、それに慢性気管支炎、肺気腫、脳血栓傷害などが続いているという話だ。
 またこの慰霊碑のそばには、平和学習と称する修学旅行でこの島を訪れた小中学生らが捧げた、色とりどりの千羽鶴が多数飾られている。
 このあと私は誰一人としていない海水浴場や、島の南端にある灯台などを見てから宿舎に入って行った。部屋は数人が楽に泊まれる和室をあてがわれた。これもシーズンオフなればこその待遇だ。そのかわり、布団は自分で押入から出して敷くようになっていた。ラドン温泉だという風呂に入ったが、その時は他に人がおらず気持がよかった。夕食は三十人ほどの客と一緒に食堂でとった。「毛利元就」という名のコースを注文したら、量がたっぷりあって、わりといける海鮮料理が出てきた。
 かなりの酒を飲んで寝たのだが、なかなか寝つかれない。暗くした部屋で眼をぱっちり開いて、とりとめもないことを考えていた。
 私が日本軍の一兵士として中国の戦場にあった時、防毒マスクをつけたりはずしたりする訓練、防毒マスクをつけて走ったり、突撃したりする訓練をうけたことがあった。当時、なぜ私たちに防毒マスクがあてがわれていたのだろうか。敵の中国軍が毒ガスを使って攻撃してくる恐れがあったからか。それともこちらが敵に毒ガス攻撃をしかけた時、その被害をこうむらないようにするためだったのか。今にして思えば、中国軍は毒ガスを持っていなかったから、やはり後者の方だったようだ。
 そもそも防毒マスクなるものは、眼や顔面をおおう眼ガラスのついたゴム製の面体と,汚染された空気を浄化する活性炭が入った吸収缶とが、曲がりくねった管によって連結されている。だから呼吸はすべて吸収缶を通じておこなうわけで、当然のことながら鼻や口から自由に空気を吸っているのと違って、かなり息苦しくなる。まして防毒マスクをつけて走るということになると、呼吸困難におちいって卒倒する恐れがある。
 そこで私たちは、古参兵からこっそり教えてもらった通り、防毒マスクの面体と吸収缶をつなぐ管についている舌状の弁のところに、こっそりとマッチの軸をはさみこんだものだ。こうすると外気がわりとたくさん入ってくるので、息苦しさがよほど緩和される。もちろん実戦では生死にかかわるので、こんな真似はできない。だが毒ガスが全然無いところでの演習だったから、みんなこれをやってのけた。ところが教官は、兵士がこうした横着をきめこむことを百も承知していて、不意に兵士が装着している防毒マスクをはずさせて管の部分を調べ上げ、そこにマッチの軸を挟んでいた者には、すさまじいビンタを食らわすのだった。実は私もビンタをとられたくちである。

    四
 島の国民宿舎でむかえる朝は気持ちがいい。向こうの島影からのぼってきた陽が、まぶしい光を窓いっぱいに投げ込んでくれる。寝間着のままで外を眺めると、凪いだ海面がキラキラ光って、早くも小さな船が何艘も出て漁をしている。
 窓の下に視線をやると、宿舎玄関前の芝生で、ジーパン姿の若い女が二人、にこにこしながらウサギに餌をやっている。それを見たウサギがあちこちから出てくるわ、出てくるわ。たちまち二十数匹の群となった。そうだ宿舎の売店でウサギの餌を一袋百円で売っていたっけ。今日は私もこれを買って島内を歩き回ることにしよう。
 朝風呂に入ったところ、またもや私一人だったので、広い浴槽で泳ぐ真似をしたりして、ゆっくりすることができた。朝食は海藻入りのお粥がうまかった。午前九時。リュックを背負って宿舎を出た。今日は時間なんか気にしないで思う存分、島内を歩き回るつもりだ。
 私は島の東から北へ、更に西から南へと時計の針回りに島を一巡し、適当なところで頂上にある展望台に上ることにきめた。宿舎の前に大きなプールが造られている。夏になると大勢の子供たちの歓声があがるところだが、もちろん今は人影はない。昔このあたりに軍が黄一号と呼んでいたイペリット、黄二号と名付けられていたルイサイトといういずれもびらん性の猛毒ガスを、また赤一号というくしゃみ性の毒ガスなどを造る工場が集中して建ち、島全体に鼻をつく異臭がたちこめていたという。
 しかし今の私は海を渡ってくる美味しい空気をいっぱい吸って、海岸沿いの道を誰はばかることなく歩けるのだ。人とはたまにしか会わない。むろん車は通行禁止になっている。車を意識しないで歩ける道路ほど嬉しいものはない。この島に来て良かったとつくづく思ったことだ。
 しばらく行くと、山際に毒ガス工場の廃墟が次々と現れ出てきた。いくら工場を潰したといっても、やはり取り残しがあるのだ。頑丈な鉄筋コンクリート造りの壁や工室や貯蔵庫の一部だけが残された工場の残骸は、いずれも火炎放射器で焼かれたあとが黒々とついている。その内部にあったはずの機材や毒ガスはことごとく撤去されてがらんとしているが、中に入らないようにとの警告がでている。
 やがて、いくつものテニスコートが集まっている広場へ出た。このあたりに緑一号とよばれていた催涙性の毒ガス、それに茶一号と呼ばれていた窒息性の青酸ガスなどを造る工場があったらしい。私がそこに立つと、どこからともなく十数匹のウサギが現れ出てきた。ポケットから餌をだして撒いてやると、われがちにそれをついばむ。身体が大きくて強い奴が、弱い奴を追っ払って餌を独占しようとする。そこで、あらためて弱い奴に餌を投げてやらねばならない。
テニスコートの端に、丘陵の頂上にあがる道があったので登ってみた。そこに明治時代に造られた砲台の遺跡があった。島の北部、中部、南部とそれぞれの高所に大小二十数台からの大砲が据えられていたようだ。これは呉軍港と守備するためのもので、ここに駐屯していた兵士たちの宿舎の跡も残されていた。
 展望台に立つと、実にすばらしい眺めだった。晴れた大空の下、どこまでも青い海に芸予諸島の島々が浮かび、その間を高速艇、漁船、フェリー、タンカーなどが白い航跡をしるしながら走っている。こんなに美しく平和な内海の小島で、人間を破滅に追い込む毒ガスが造られていたなんて、信じられないくらいだ。 再び山の上から海岸に降り立った私は、今度は潮が引いたばかりの砂浜を歩いてみることにした。綺麗な砂の堆積だがその上に乗ると、靴がずるずるとめりこむのではないか。そっと足を踏み入れた。だが大丈夫、砂は意外にも固く引き締まっていた。海を知らない私はすっかり嬉しくなって、子供のように砂浜を走り回ったものだ。 私が再びフェリー上の人となって島を離れたのは昼過ぎだった。さらば大久野島よ、また来るまではと、私は甲板の上から、次第に遠ざかる島影に別れを告げた。
 大久野島で製造された毒ガスは、福岡県にあった曽根兵器製造所に送られ、ここで様々な弾丸に詰め込まれていた。そして完成した毒ガス弾は続々と中国大陸へ運び込まれ、無数の中国軍兵士と非戦闘員の民衆を殺傷したのだった。ところで今なお中国には、日本軍により密かに遺棄された七十万発からの毒ガス弾があり、今や日本政府は五千億からの巨費を投じて、これを処理しなければならない羽目に追い込まれているのである。
 私が次に訪れた広島市には、原爆の災禍を如実に示すかの原爆ドームと広島平和記念資料館がある。これはアジア太平洋戦争で日本が受けた最大の被害事実を証し立てるものだ。これに反し大久野島の毒ガス工場遺跡は日本の中国に対する加害面を如実に表しているのである。日本がおこなったかの戦争の実体は、その加害と被害の両面をしかと見ることによって、はじめて明らかとなってくるのである。


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