大阪城公園・それは私の庭


     一
 
私はよく大阪城公園へやってくる。寝屋川市にある私の家からここまで、京阪 電車を利用すると四十分で来られる。たかが公園へ行くのに、わざわざ電車に乗 るなんて、最初のうちは抵抗があった。でも、もう馴れてしまった。
 私の住む寝屋川市には本格的な公園が一つもない。家の近くに、散歩するの に手頃な堤防や河川敷といったものもない。昔は何処へ行っても水田と畑ばかり が目立つ、のどかな近郊農村だった。それが今なお止むことがない乱開発のため 、ひどく住みにくい町になってしまった。 こんな町に誰がした。私自身、既に 一九七二年に「朝日新聞」の求めに応じて『くずれゆく近郊農村』と題するルポ を連載していながら、悪化の一途をたどる町の環境を手をこまねいて眺めている だけだった。

 いま私は大阪城公園内の市立博物館の真ん前、イチョウの大木の下におかれ たベンチに腰掛けている。今日は大阪市内にあるカルチャーセンターへの出講を すませてから、地下鉄でこちらへ廻って来た。時刻は既に午後四時過ぎ、それに 花見の季節が一月も前に終わっているせいか、観光客の数はそれほど多くない。
 私がいるところから目と鼻の先に、大阪城天守閣がある。これは昭和六年( 一九三一)、天皇即位記念事業の一つとして、市民の寄付金で建てられたものだ 。高さ五四・八米。外観五層、内部八階建ての、豊臣秀吉創建の壮麗な天守閣を 彷彿させるこの建造物は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りである。
 ところが目下、築後六十五年目にしての「平成の大改修」とやらで、天守閣 は無粋な工事用の囲いや足場で頭からすっぽりと覆い隠され、さだかに見えるの は天を突いて立つ巨大なクレーンだけである。この有様に、各国からやってきた 観光客は、ひとしく落胆の表情を浮かべている。
 この天守閣と博物館がある一帯は本丸といって、大阪城公園の臍にあたると ころだ。今日の私はここへくるのに、正面玄関である大手門をくぐってきた。こ のコースを私はひそかに「正式の入城法」と呼んでいる。
 地下鉄もしくは京阪電車の天満橋駅をおりて東南へ五百米も歩くと、すぐに 大阪城の外堀と城壁と、古色蒼然とした乾櫓が見えてくる。私はここから、涼し い木陰を作るケヤキの並木道を、大手門の方へと歩いてきた。外堀にたっぷりと 湛えられた浅緑色の水と、そこへほぼ十五度の急角度でもって降りている城壁の 洗練された線を眺めたとたんに、不思議と心が和んでくる、今日もまた公園へ来 てよかったという思いがしてくる。
 大手門へ至る道はずいぶんと広く、両側に松の並木がある。黒の屋根瓦と白 壁のコントラストがとてもいい千貫櫓や、外堀の水鏡にその優美な姿を写してい る城壁などを間近に見ながら進んで行く。巨大な門扉を開け放った大手門の前に 立つと、今日は正式の入城法で行くぞという思いがちらっと胸をかすめる。
大手門をくぐり多聞櫓の前へ来ると、畳で二十九畳あるいは二十三畳もの面積 をもつ巨石が防壁として使われているのが見受けられる。私はいつもこれらの石 を一瞥するだけで、足早に通り過ぎてしまう。だが、時おり巨石の声無き声に呼 び止められ、しかも、なぜゆっくり見てくれないのかと咎められることがある。 どうやら大阪城の巨石は、多くの人から感嘆の眼で眺められるのを生き甲斐に、 何百年もの長い時間を生きてきたようなのだ。
 多聞櫓を過ぎると西の丸庭園や、豊臣秀吉を祭神とする豊国神社などがある 。しかし、今日の私はここへは寄らず、空堀にかかる橋を渡り、桜門をくぐって 、ここ本丸へとやってきたのだった。
 さて、話をもとに戻して、博物館の真ん前にあるイチョウの大木の下のベン チだが、ここは私が好んで坐るポイントの一つである。ここに坐っていると、色 々な国の老若男女が、さまざまな服装、さまざまな顔つきで次々と眼の前を通り 過ぎていく。その人たちを見るともなしに見ながら、とりとめもないことを考え るのが私は好きなのだ。
 近くに売店があるため、タコ焼きや、焼きそばなどを美味しそうに食べてい る人々の姿も、自ずと視界に飛び込んでくる。酒呑童子の後裔である私は、実は 先程からタコ焼きでも肴に缶ビールを飲みたくて仕方がないのだが、ぐっと我慢 をしているのである。なぜならば、私が広い公園を何キロもさまよい歩く目的の 一つに、これ以上体重を増やさないようにするということがあるからだ。

 私の眼の前にある市立博物館は、入り口がアーチ型になった古めかしい三階 建ての洋風建築だが、もとは第四師団司令部の庁舎だった。私はこの建物を眺め る度に、将校用軍服の胸に誇らしげに勲章をつけ、腰には長い軍刀をぶらさげた 高級軍人たちが、長靴の音も高々とここに出入りしていた有様を思い浮かべるの を常としている。そしてこの建物が、天守閣と同じ昭和六年に建てられているこ とにも思いをいたさないわけにはいかない。
 そもそも大阪城とその周辺に展開する広大な土地は、明治維新このかた陸軍 が占有するところとなり、種々様々な軍事施設が建ち並んでいた。ところが昭和 三年、アイディアマンとして有名な関市長は、天皇即位の奉祝事業として、大阪 城に天守閣を再建する計画をたてた。そして軍部の賛同を得るべく、むずかしい 交渉を開始したのだった。当然、この交渉には紆余曲折があったが、結局、市当 局は軍用地に天守閣を建てさせて貰うかわりに、そのそばに師団司令部庁舎を新 築して軍に寄付するという破格の条件で、軍部を納得させたのである。こうでも しなければ、絶大な権力を持つ軍部の承諾を得ることができなかったのだ。
 かくして一九三一年、昭和の天守閣が完成するや、大阪市民は大挙して、そ れまで立入禁止区域だった大阪城に押し掛け、エレベーターで展望台に上がって は眺望を楽しんだのだった。ところが市民が天守閣に出入りできたのは、創建か らわずか十年あまりの間だけだった。アジア太平洋戦争が激化した昭和十七年( 一九四二)九月から、軍部は防諜という大義名分をふりかざして、一般市民が天 守閣はもとより、大阪城内に一歩でも立ち入ることを禁止してしまうのである。 しかも軍部は天守閣をまるごと軍事施設として利用し、敗戦の日まで、ここに通 信中隊などを駐留させるに至るのだ。

     二

 やがて私は、博物館前のポイントからはなれる。さて、これからどの道をた どって、この本丸から抜けだそうか。私は同じコースをもう一度引き返すなんて ことは大嫌いだ。ところが嬉しいことには、大阪城公園ではそうする必要がない 。私は博物館の裏の方へ廻り、石の階段を山里丸跡へと下りて行った。そこから 内堀に架かる極楽橋の上に出た。この
橋からの眺めが私はたいそう気に入っているのだ。左右にずうっと奥深い所ま で展望がきいて、水と石と樹木によって醸し出される内掘の造形美を堪能するに はここが一番なのだ。さざ波が立つ水面では、お馴染みの白鳥が二羽、軽やかに 泳いでいるのがやや遠くに認められる。おや、よく見ると、今日は小さなカルガ モが一羽、大きな白鳥夫婦のお供をしている。夫婦の子供にしてもらったつもり らしい。

 ここで私はふと考えた。私はどうして、こうした封建領主が構築した城とい う名の要塞を、美しいもの、心を和ませてくれるものとして、眺めることができ るのだろうか。この城と同時代を生きた近世の庶民は、はたして私と同じような 思いでもって、堀の水に鮮やかな影を落とす石垣や櫓のたぐいをみつめ得ただろ うか。私はどうもそうではなかったような気がしてならない。なぜならば、過酷 な従軍体験を持つ私には、先ほど見たばかりの博物館の建物をすこしもいいと思 えないばかりか、強い嫌悪感すら抱いてしまうといったことがあるからだ。私に はもと師団司令部の庁舎だったこの建物が、いかに変身しようとも、忌むべき軍 国主義の残骸としてしか眼にうつらないのである。
 ところが封建領主の支配など全然受けたことのない私は、絶大な権力と武力 の象徴であったはずの大阪城の遺構を見ても、なんの痛痒も感じないばかりか、 むしろその構築美に酔ってしまうのだ。だが、近世の庶民は、こうした領主の館 を畏怖の念で、あるいは嫌悪の念でもって眺めることはあっても、決して私のよ うに感傷にうるんだ眼でみつめることはなかったはずだ。 

 極楽橋を渡りきると、そこは二の丸である。私は内堀に沿った舗道を歩いて 梅林へ行くつもりだ。折から風がでてきたので、堀端のしだれ柳が重たいばかり に葉をつけた枝を大きくゆさぶられている。今は柳の緑がいやに眼にしみる時期 だ。このしだれ柳の並木の中で、いつも私が立ち止まって、しげしげと眺めずに はいられない一本がある。それは年老いた柳の木だ。しかもこの柳は、背中を日 本刀でざっくり割られた人のように、太い幹が無惨にも縦割りに大きく引き裂か れそこに水や虫や小鳥などが容赦なく侵入して、腐った空洞になってしまってい るのだ。いつなんどき切り倒されても不思議でない、哀れな老木なのだ。ところ が見よ、朽ちかけたその幹から、渾身の力をふりしぼって噴き上げたとしか思わ れない、他の柳にまさるとも劣らぬ鮮やかな緑の葉と枝を、堀の水面すれすれに 垂らしながら、嬉々として風と戯れているではないか。
 梅林は天守閣の東、内堀と外堀にはさまれた三角形の、広さ約一・七ヘクタ ールの土地に造られている。梅の木は約千百本、八十からの品種があって、花の 咲く頃は大勢の人がやってくる。今は結実期だが、ここの梅の実は、大きくなる 前にほとんどもぎとられてしまうのだ。今日もまた、ビニール袋を持った男女の 「梅の実盗っ人」が三々五々、広い林のあちこちでうごめいている。みんなで盗 めば怖くないか。
 この梅林の中に、なぜか樹齢二百年からのエノキの大木があって、その下に 四つ、ベンチがしつらえてある。ここも私が好んで坐るポイントだ。だが、ここ から眺める青葉の梅林を、私はあまり好きになれない。だいたい梅林などという ものは、いっせいに咲き乱れる花のほかには見るべきものがない。だから私はい つもここで、文庫本を開いたり、思いついたことをノートに書きつけたりする。 私の頭上でしきりに鳥が鳴いている。その声からしてムクドリか。かなりの数だ 。やかましい。だが、苦にならない。
 
 昨夜私は二階のパソコンが置いてある部屋で、手持ちの明治、大正、昭和( 戦前)発行の幾種類かの「大阪市街地図」をひろげてみた。また『大阪市史』も 参照することによって、大阪城内とその周辺にあった数々の軍事施設の位置を再 確認することができた。こうしたことを調べる時、便利なのは大阪城の位置だけ が、明治維新この方ちっとも動いていないことである。だから、どんな古地図で も、まず大阪城の内堀と外堀がどこにあるかを押さえてから調べにかかれば、決 して誤ることはない。
 戦前、大阪城内にあった軍事施設としては、本丸に第四師団司令部があった ことは既に書いた。このほか二の丸には、私がいまいる梅林のあたりに陸軍監督 部があり、いま豊国神社が建っているところには、世にも恐ろしい陸軍刑務所や 第四師団軍法会議(罪を犯した将兵を裁く所)などがあった。
 さらに大阪城の周辺には大阪連隊区司令部、歩兵第七旅団司令部、大阪憲兵 隊司令部、歩兵第八連隊、歩兵第三十七連隊、輜重兵第四大隊、大阪陸軍病院、 城南射撃場、大阪砲兵工廠、陸軍被服廠など枚挙にいとまがないほどの軍事施設 があった。このように戦前の大阪城とその周辺は、軍都大阪の中心地で、どこへ 行っても憲兵が眼を光らしている、実におっかないところだった。
 以上の軍事施設のうち、歩兵第三十七連隊というのが、実は今から五十四年 もの昔、昭和十七年(一九四二)十二月に、私が満二十歳の現役兵として仮入営 したところである。私はこの兵舎に半月ほどいただけで、すぐさま中国の前線に いる歩兵連隊に「現地入隊」すべく、輸送列車に乗せられたのだった。いよいよ 大阪の地におさらばする出陣の日、私たち六百名からの新兵は、真新しい軍服に 身を固め、重い背嚢を背負い、三八式歩兵銃を肩にかつぎ、帯剣を腰にぶらさげ 、舗道いっぱいに展開する四列縦隊となって、大阪駅に向かって威風堂々の行進 (当時の常套句)をしたのだった。連隊の営門を出てすぐ、右手に大阪城が見え てきたが、その時私のそばにいた戦友が「おい、井上、お城もこれが今生の見納 めやぞ」と言った言葉を、今だに忘れることができない。
 ところが、この行軍の途中で上官の眼をかすめて逃亡した兵士が一名あった とかで、私たちは大阪駅に着くなり、憲兵隊の厳重な監視下に置かれることとな った。今にして思えば、部隊の行軍中に隊列からずらかり、軍服を着たまま逃亡 するなんて、並の人間ではとてもやないができる仕業ではない。
 しかし、この逃亡兵は中之島公園の茂みに潜んでいるところを私服の憲兵に つかまり、軍法会議にかけられたあげく、陸軍刑務所行きとなったらしい。こう した逃亡兵の後日談は、すぐさま中国大陸へ送られてしまった私たち新兵が知る 由もなく、戦後もなんと四十年もたってから、私がたまたま出席した戦友会の席 上で、当時の部隊輸送指揮官だった男から聞かされたのである。その時、この元 陸軍中尉殿は私に「この逃亡兵事故の責任をとらされて、おれは軍隊では出世で きなくなってしもた。お前たち十七年兵(昭和十七年に徴集された兵士のこと) のおかげで、おれはひどい目にあったんだぞ」と、いかにも恨めしそうな顔つき で宣うたものだ。

 エノキの大木の上で喧しくさえずっていた鳥たちの鳴き具合が急に変わった なと思ったとたん、百羽からの鳥がいっせいに私の回りに急降下してきた。梅林 の土の上を忙しそうに歩きはじめた。その賑やかなことといったらありはしない 。やっぱりムクドリの群れだった。ムクドリより身体が一回り小さな雀も、遠慮 がちにその中に混じっている。鳥たちはちっとも私を恐れない。雀が一羽、私の ベンチにやってきた。物欲しそうに私の顔を見上げている。食パンでもあればあ げたいところだが、あいにくそういうものの持ち合わせがない。ここへ来る度に そう思うくせに、いつも私は小鳥たちへのプレゼントを持ってくるのを忘れてし まうのだ。申し訳ない。

     三

 私は大阪城梅林から玉造口へ出ることにした。ここでは先ずそそりたつ城壁 の上にのせられた一番櫓が視界に入ってきて、その下に満々たる水を湛えた外堀 の美しくも広大な風景が開ける。あたりの豊かな植生の緑もよろしい。大阪城の 外堀は見る場所によって、それぞれ眺めも趣も異にするところが面白い。玉造口 から見る光景には城の「裏口の美」ともいうべきものがあり、陰影が一段と濃く なって、一抹の哀愁すら漂わしている。
 また城壁というものは、下の方から眺めるのもいいが、時には上から見下ろ すのもいい。そういう所にはベンチが置いてないし、暗がりだと堀に転落する恐 れがなきにしもあらずだが、見晴らしがよくて、しかも人目を避けて腰かけるの にうってつけである。私は時々こういうポイントへも行くが、ともすれば、そこ には若い男女の先客があって、鍵がかかる部屋でやるべきようなことまでやって いるのに出くわしがちだ。私は馴れないうちは、こういう手合いに大いに気をつ かった。見て見ぬふりをした。なるべくそばへ近づかないようにもした。しかし 、相手はこうした配慮をする必要も値打もない連中であることが、だんだんと分 かってきた。そこで近頃の私は、誰はばかることなく行きたい所へ行き、坐りた い所に坐るようにしている。「大阪城公園に自由存す」でなければならないから だ。
 さて、玉造口を出てしまうと、道は自ずと城外にある公園へとつながってい く。大阪城公園は、全体で一〇七・七ヘクタールの広さをもつが、それは大まか にいって、二つの地域に分けることができる。一つは今まで私が歩いてきた、天 守閣を中心に外堀に取り囲まれた城内ゾーン(七三・四ヘクタール)だ。もう一 つは、外堀の外に展開する城外ゾーンである。

 これから私が歩いて行くのは、城外ゾーンの中では城南地区と呼ばれるとこ ろだ。ここには、大阪国際平和センター(別称・ピースおおさか)という名の戦 争博物館がある。この建物はいちおう鉄筋コンクリートの三階建てだが、採光を 至上条件としたためか、ガラスを大量に使用し、屋根と壁の線を呆れるほど複雑 にした、たいそう風変わりなものとなっている。オープンしたのは平成三年(一 九九一)九月と比較的新しい。大阪府・市の共同出資で財団法人として設立され たが、それは大阪にも戦争資料館を作るべきだという強い意見と要望が、早くか ら市民有志や各種団体から出されていたためである。
 ピースおおさかが常設展示でもっとも力を入れているのは、アジア太平洋戦 争の末期に、アメリカ空軍の五十数回に及ぶ大空襲によって焦土と化した大阪市 内のありさまを再現したコーナーである。しかし、これだけでは日本が戦争で受 けた被害面しか出ないことになってしまう。そこで、別のところに「十五年戦争 」というタイトルをつけた展示室を設けて、不十分ながらも日本軍が侵略者、加 害者として中国や東南アジアの諸地域でおこなった残虐行為などもあきらかにし ている。また日本人が植民地時代の朝鮮民族に加えた非道な弾圧の実態なども、 はっきりと示している。
 しかしながら、こうした深みのない常設展示だけだと、私はここへ何度も足 を運びたいとは思わないだろう。私がピースおおさに惹かれるのは、三階に戦争 関係の本ばかり約一万六千冊を集めた図書室があり、自由に閲覧できる仕組みに なっているからだ。しかも、この図書室はいつ来てみても、閑散としている。だ から私はよく、一人淋しく万巻の書に取り囲まれながら、今更のように、私が若 き日にまきこまれたアジア太平洋戦争というものは、次々とこれだけの資料を生 み出さずにはおかないほど大規模なものだったのか、といった感慨にとらわれて しまうのである。嬉しいことには、ここの書棚には、私が書いた『従軍慰安婦だ ったあなたへ』という本もおいてある。この本には、戦争に対する私の切なる思 いがこめられているように、ここにある書物の一冊一冊には、それぞれの著者の 戦争に対するやみがたい情念が注ぎ込まれているのだ。そのように考えると、私 はにわかに息苦しくなり、ここから逃げ出したくなってくるのである。
 
 時計を見ると、もう午後四時四十分。ピースおおさかの閉館時間は五時だか ら、今日はここへは立ち寄らないでおく。

     四

 私はピースおおさかの横についている階段をくだって、音楽堂の前に出る。 ここには私の好きなメタセコイヤの林がある。どの木もすくすくと伸びて、見上 げるような大木になっている。しかし戦後にアメリカからもたらされた木だから 、樹齢はまだ若いはずだ。このあたりから、大阪城公園の城外ゾーンの中ではも っとも広い杉山地区(約四五ヘクタール)が展開する。 私は大きな噴水がある 広場に出た。ここにも噴水を取り巻くようにしていくつものベンチが置いてある 。この噴水広場も私が好んで坐るポイントだ。広場のまわりにはすべて円錐形に 刈り込まれた大きなヒバの植え込みがあって、眼を楽しませてくれる。ここに集 まる人々は、大阪城内にくる人々とはまるきり層が異なる。観光客はめったにい ない。たいてい近くの団地からやってきた人たちだ。中には自転車でかなり遠く からやってくる常連もいる。時間がもう少し早い昼下がりだと、乳母車を押した 若い女や、よちよち歩きの子供をつれた祖母らしき人が、何組もくりだしてくる 。そして勢いよく噴き上げる噴水を見上げたり、そこらじゅうをいそがしげに歩 き回るドバトに餌をやったり、追っかけたりする。
 今日は噴水の回りの広い舗道を、小学二年生くらいの女の子と、もうすこし 大きい女の子が高低二種類の一輪車を交互に乗り回すというパフォーマンスが演 じられている。実に見事な乗りっぷりだ。女の子の母親らしき中年女が、にこり ともしないで、それをじいっと見ている。低い方の一輪車なら乗る人をよくみか けるが、今日の二人は、それこそ舗道に落ちたら大怪我になること必定という、 高さ二米もあるノッポ一輪車を、自由自在に乗り回しているのである。あまりう まいので、見ているうちに憎たらしくなってくる。まさかこの二人、軽業師にな るつもりで練習に励んでいるのではあるまい。
 ところで私は、まだまだ「鬱蒼とした」という形容はあてはまらないけれど 、よく繁った市民の森に向かって歩き始めた。ここにはケヤキ、クスノキ、エノ キ、イチョウ、カシ、キリなど約百七十種、十九万本からの樹木が所狭しと植え られている。これらの木の下を、自由自在に歩き回りながら、私はいつもこの広 大な森林公園の成り立ちについて考えるのである。

 いま私が歩いている市民の森とそれに続く記念樹の森、更にそのむこうの太 陽の広場グラウンド、大阪城ホールなどがあるところは、戦前は大阪砲兵工廠と いう巨大な兵器工場があったところなのだ。いや、大阪砲兵工廠があったのは、 ここだけではない。 大阪城公園の北東部、寝屋川と第二寝屋川に挟まれた三角 州(面積約二一ヘクタール)は、いま高層ビルが建ち並ぶモダンなビジネスパー クとなっているが、実はここも工廠の敷地だった。更にもう一郭、JR大阪環状 線の大阪城公園駅の東部にある森ノ宮電車区や車両工場や住宅団地も、やはり工 廠があったところなのだ。
 つまり大阪砲兵工廠は現在のJR京橋駅、大阪城公園駅(近年に新設)、森 ノ宮駅という三つの駅にまたがって存在していたのだった。その敷地凡そ一三二 ヘクタール、戦争末期の従業員数六万八千人というから、いかに大規模な兵器工 場だったかが分かるというものだ。
今のJR環状線は戦時中には、まだ大阪駅から天王寺駅までの片側しか開通し ておらず、その名も城東線(大阪城の東を通る線の意)と呼ばれていた。もちろ ん高架であったが、京橋駅から森ノ宮駅に至る間、約一・八キロの線路だけが高 架になっていなかった。しかも地上をじかに這う線路ぞいには、陰気な黒塀が延 々と張り巡らされて、電車の乗客が窓から兵器工場を眺めることが出来ない仕組 みになっていた。防諜に名を借りた措置だったが、今にして思えば軍部の横暴以 外のなにものでもない。
 アジア太平洋戦争の末期、それも明日になれば戦争が終結するという、昭和 二十年(一九四五)八月十四日、アメリカ空軍のB29戦略爆撃機がなんと三百 機も大阪に来襲、砲兵工廠にむかって一トン爆弾を雨あられと投下したのだった 。このため、さしもの兵器工場も完膚無きまでに破壊されてしまった。この日、 電車の乗客の目隠しの役割を果たしていた長蛇の黒塀も一挙に吹き飛ばされてし まった。以来、大阪市民は、くずおれ焼けただれて鉄骨がむきだしになった工場 の屋根組みをはじめ、垂れ下がった無数の電線、折れ曲がった鉄パイプや、壊れ た起重機に各種工作機械、原形を辛うじてとどめている大砲に戦車、それに不気 味な砲弾の山、得体の知れない鉄やコンクリートの団塊などが、途方もない広さ と量でもって散乱する兵器工場の醜悪な廃墟を、車窓から誰はばかることなく眺 めることができるようになるのだ。
 昭和二十五年、朝鮮戦争が勃発するや、金へんブームがおこり、俗にアパッ チ族といわれた貧民、浮浪者よりなる屑鉄泥棒が、群れをなしてこの廃墟に侵入 し、大量の鉄材を持ち出すという騒ぎになった。その有様は開高健の『日本三文 オペラ』(昭和三十三年)に面白おかしく描かれている。
 やがて戦後の復興が軌道に乗り出した昭和二十七年頃から、この広大な砲兵 工廠跡の整地作業が始められる。この時点で、政府や大阪市はその一部を大阪城 公園の一郭として公園化すること、残りはビジネスパークや、電車区、住宅など に転用することをきめたようである。 しかし、危険な不発弾の処理や、頑丈な 鉄筋コンクリート壕の除去などをふくむ整地作業や、その後で行われた植樹作業 はたいへん手間取り、昭和四十四年になって、ようやく森林公園らしい形が整え られてきたのだった。

 いま私が歩いて行く森林の一角、ほの暗い木陰に「砲兵工廠跡」としるした 石碑がひっそりと置かれている。もとここに巨大な兵器工場があったことを証明 するのは、もはやこれだけである。先にふれた昭和二十年八月十四日の大空襲の 際には、六万八千人からの従業員はいちはやく工廠外に逃げていて助かり、防空 要員として残された三百八十人が殉職している。またこの時、城東線京橋駅のプ ラットフォームの下に退避していた一般市民の上にも一トン爆弾が落とされ、二 百十人が爆死したのだった。その中に、私が一兵士として戦地に赴くまでつきあ っていた一人の女もふくまれていた。この女の思い出を私は、『奈良・東大寺で 別れた娘』という作品にしている。
ついでに書いておくと、大阪城天守閣は砲兵工廠から直線距離で二百五十米し か離れていないのに、軽微な損害を受けただけで、助かったのだった。



市民の森や記念樹の森で、樹木の精気をたっぷり吸った私は、とうとう大阪城 ホールの前に出てきた。なにか催しものがあったのか、ホールから若い男女が次 々と吐き出されてくる。時計をみると午後五時三十分。ここは大阪城公園の北端 で、第二寝屋川に架かる大阪城新橋のたもとである。ここで大阪城公園は、もう おしまいだ。私は橋の上に出ると、いつものように天守閣を振り返った。私が天 守閣めざして「正式入城」した大手門は、もちろん見えないが、ここから対角線 上の所にあるのだ。このように私は大阪城公園では、入場した所と退場する地点 を大きく隔てることに、子供じみた喜びを覚えるのである。
私はどす黒く汚れた第二寝屋川をエンジンの音も高らかに行く曳き船を見送っ てから、橋を渡った。すると、ここはもうビジネスパークの領域である。右手に ホテルニューオータニ、左手に松下IMPビルが見え、その間を美しいケヤキの 並木をもつ舗道が、まっすぐ貫いている。次の交差点を渡れば、松下興産が建て た高さ百五十七メートルのツインタワーを筆頭に、クリスタルタワー、KDDビ ル、東京海上ビルなどの高層ビルが次々と視界に飛び込んでくる。それらのビル からは、一日の勤めを終えたサラリーマンやOLたちが、やや疲れた表情で続々 と出てくるわ、出てくるわ。 舗道脇にあるコーヒーハウスやビヤホールやハン バーガーショップには、人をいざなう橙色の明かりがぱっとともって、思い思い の初夏の衣装を身につけた若い男女が、楽しそうに飲み、喰い。語り合っている 。このあたりには、時間が早ければ私が必ず立ち寄って、新製品のパソコンを見 せて貰ったりする、日本電気や富士通のビルもある。
 大阪城公園とは狭い川ひとつ隔てているだけだのに、公園からここへくると 、異次元の世界へ飛び込んだような気がする。でもここにもメインストリートを 離れて、寝屋川、第二寝屋川という二つの川の岸辺や三角州の先端部へ行けば、 散歩したりベンチで休んだりするのに手頃の公園があるのだ。このビジネスパー クの整地とビルの建設には多大の時間がかかり、ツインタワーが出現して大阪人 を驚かせてから、まだ十年にしかならないのである。
 ところで私は、いままで故意に書かなかったのだが、大阪城公園を歩いてい ると、いたるところでといっていいほど、このビジネスパークの高層ビルが視界 に飛び込んでくるのだ。なにものにも邪魔されずに大阪城の遺構だけを眺められ る所は、もはや限られてしまっているのだ。
 これほど大きくあたりの景観を変えてしまったビジネスパークとはいったい なにものなのか。それは高度経済成長の申し子。経済大国日本の、いや商都大阪 のシンボル。それとも時代の最先端を行くハイテクの結晶体。こうした安易な言 葉ならいくつか浮かんでくるが、その実態は容易につかめない。しかし、ビジネ スパークがいかにモダンな装いを凝らそうとも、ここもまた大阪砲兵工廠の跡地 であることには違いないのだ。

 今日の私は相当歩いた。背中にすこし汗もかいた。もう電車に乗って家へ帰 ろう。私はこれから京阪電車京橋駅とビジネスパークをむすぶために、寝屋川を ひとまたぎにして架けられた長さ百八十米のプロムナードを渡って行かねばなら ない。いつもここへ来る度に思うのだが、この歩行者専用の高架式プロムナード は実によく出来ている。これも今から十年前に完成したのだが、当時の金で二十 四億円もの巨費が投じられている。しかし、ここから寝屋川の汚れに汚れた水面 を見下ろした時、現代の日本は突如としてビジネスパークのようなもの出現させ るだけの力と技術をもっているのに、なぜ川を綺麗にするといった単純明快なこ とができないのかと、私は首をかしげないわけにはいかないのである。

 私が大阪城公園をひそかに「私の庭」とみなして、春夏秋冬を問わず、でき るだけここへ足を運ぼうとするのはなぜか。それにはいろいろなわけがあるが、 ここは私が若い頃に体験した戦争や軍隊というものについて、あれこれ思いをい たすのに恰好の場所でもあるのだ。
 私はここへ来る度に「戦争や軍隊の痕跡」というものは、ものの五十年もた てばこんなにも見事に消去できるのかという感慨にとらわれてしまうのだ。もち ろん私は、大阪城の周辺から、軍国主義の遺物が払拭されたことを歓迎こそすれ 、それを懐かしむ気持ちなど微塵もない。
かつて幸田 文という女流作家は、父露伴の臨終に際して「お父さん、お静ま りなさいませ」と言ったそうである。これとは全く趣旨を異にするけれど、私も その独特の言葉遣いだけを真似させてもらって、大阪城界隈で猛威をふるってい た軍部や軍国主義が永遠の眠りにつき、二度と再び甦らないように「軍人さん、 お静まりなさいませ」と、つぶやかずにはいられないのである。
 ところで、こんにち大阪城公園やビジネスパークにやって来る若い世代の中 で、この場所を私のように戦争や軍隊と結びつけて眺めたり考えたりできる者は 、いったい何人いるだろうか。ほとんどの若者には、アジア太平洋戦争に対する 知識や、関心の持ち合わせがない。このような若者を、戦後の日本はいつしか大 量に作り上げてしまったのだ。これを別の角度から言うと、今の若者の内面に、 私たちの世代がもっている戦争や軍隊体験を、くっきりした影として落とすこと が、著しく困難になってきているのだ。こうした現状を私に言わせれば、これま た見事な「戦争の内面的痕跡の消去」に他ならない。
 結局、戦争というものは、戦争そのものを見つめているだけでは、その実体 をつかめない性質のものだったのだ。戦争はそれが終結してから半世紀もたてば 、外面的にも内面的にもその痕跡が消去されてしまうという、現に私の眼の前に ぶらさがっている事実をもふまえて、追求されるべきものだったのだ。(終)



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