大阪城公園ものがたり



 京阪電車に乗って天満橋駅に近づいた時、、車窓からびっくりするほど綺麗 になった大阪城天守閣が見えるのにお気づきだろうか。JR環状線で大阪城公園 駅にさしかかった時は、もっとよく見える。

  これは大阪市が一昨年の暮れから、七十億もの経費をつぎこんでやってい る大阪城公園内の天守閣大改修工事のせいなのだ。

 工事はまだ完成しておらず、四月にオープンとのことだ。ちょうど花見時だ から、大阪城公園は大変な人出になるだろう。
 
 この二月のはじめ、私は城内・二の丸にある梅林が花をつけはじめたのを見 がてら、天守閣のそばへも行ってきた。まだ工事用の足場は取り払われていない が、最上階の屋上で燦然と輝く金色のシャチホコをはじめ、同様に金箔押しされ た虎のレリーフ、鬼瓦、飾り金物などが、天守閣を見上げる者の眼にまぶしく、 きらびやかに飛び込んでくる。
 
 また銅板屋根瓦五万五千枚を葺きなおし、そのうち金箔押し軒瓦四千枚を取 り替えたという五層の屋根は鮮やかな緑色で、それに対するに輝くばかりの純白 に塗り替えられた壁という具合に、天守閣は見違えるように改修されている。長 年の間、風雨や煤煙で薄汚れてしまった天守閣を見慣れてきた私などは、いきな り目の前にお色直しをした花嫁が立ちはだかったような驚きを覚える。
 
 では天守閣の内部の方はどうなっているのか、まだ中へ入れてもらえないの で知る由もないが、これまた随分と立派なものに生まれ変わっているはずだ。

 どこか遠くから来たらしい数人連れの観光客も天守閣を眺めながら、
「さすが太閤秀吉が建てたものだけあって、立派なものですなあ」
「いや、秀吉の天守閣は大阪夏の陣で焼け落ちてしまっているはずです。これ はたしか徳川氏が建てたものじゃないですか」
といった会話を取り交わしていた。もちろんこれは、どちらも誤りだ。実はこ の天守閣、昭和六年(一九三一)に大阪市によって建てられた、外観は五層、内 部は八階建ての、当時としては画期的な鉄筋コンクリート造りの新城なのである 。非常によく出来ているので、時々、近世からあった城だと勘違いする人がでて くる。

 もっとも、観光客が勘違いするのも無理からぬところがある。というのは、 大阪城の堀と石垣、それに櫓などは近世のものが残されているので、その中にあ る天守閣だけが別物とは考えにくいからだ。

 また面白いことには、天守閣が昭和製のものと百も承知のはずの大阪人でも 、この堀や石垣や櫓だけは秀吉が造ったものがそのまま残されているのだと思い こんでいる向きが少なからずある。

 だが秀吉が建てた大阪城の遺構は、たとえ石垣の一部なりとも、今では見る ことができない。いま見る大阪城の遺構は、すべて徳川氏が造ったものなのだ。

 豊臣秀吉が天正十二年(一五八四)に入城した大阪城は、それから三十一年 後の元和元年(一六一五)、大阪夏の陣で炎上し、同時に豊臣氏は滅亡してしま う。
 このあと徳川氏は大阪を幕府直轄地とし、新たに大阪城の築城に着手するの だ。この工事は元和六年から寛永六年(一六二九)まで、十年という長い歳月を かけておこなわれた。
 ではこの「徳川氏の大阪城」とはいったいどんな城なのか。まず城郭の敷地 面積からみると「秀吉の大阪城」よりはだいぶ小さくなっているらしい。では、 徳川氏の城はそれだけ貧相なものになったかというと、決してそんなことはない 。まず城のシンボルである天守閣をみてみると、外観五層、内部は地下の穴蔵を 含めて六層、本丸地面からシャチホコまで高さ約五八メートルもある豪壮雄大な ものだった。これは秀吉が建てた天守閣よりも、また現在の鉄筋コンクリート製 の天守閣(高さ五四・八メートル)よりも大きかった。
 
 また堀の深さと広さ、石垣の高さにしても江戸城に勝るとも劣らないものに 造られたといわれている。こうした城郭の工事は諸国大名に課せられた普請役に よっておこなわれた。大名たちは技術の粋をつくして堅固で優美な曲線を持つ石 垣を作り上げたばかりでなく、競って城内に防壁用の巨石を運び入れて、幕府へ の忠勤忠誠ぶりを眼に見える形で示そうとしたのだった。
 
 こんにち大阪城内には蛸石とか肥後石などとよばれる巨石がいくつもあって 、観光客の感嘆の的となっているが、これらはみな、大名たちが遠路はるばると 苦心惨憺して運搬してきたものなのだ。
 
 要するに徳川氏は、豊臣氏の影響が色濃く残る大阪の地を支配するためには 、豊臣氏に格段勝る城を築いてその威光を誇示する必要があったのだ。
 
 では、豊臣氏の大阪城の遺構はいったいどうなったのか。近年おこなわれた 学術調査の結果、秀吉の城の名残である石垣などは、徳川氏の城の地下深く埋ま ってしまっているということである。つまり徳川氏は秀吉の城跡に高く盛り土を して、その上に自分たちの城を築いたのだった。言うなれば秀吉の大阪城は徳川 氏によって「埋め殺し」にされてしまったのだ。
 
 ところで、この徳川氏が建てた壮麗な天守閣であるが、これがなんと寛文五 年(一六六五)に落雷のために惜しくも焼失してしまう。以後、さすがの徳川氏 の威光と財力をもってしても天守閣の再建は成らず、それを欠いた城のまま幕末 を迎えるのである。その幕末の大阪城だが、慶応四年(一八六八)鳥羽伏見の戦 いのおり、城内から出火し、本丸殿館、城代屋敷、倉庫、櫓などの主要建築物の 多くが無惨にも焼け落ちてしまうのである。
 
 また昭和二十年(一九四五)、アメリカ軍による空襲でも、昭和製の天守閣 は辛うじて焼失を免れたものの、京橋門や五つの櫓などが焼失している。
 
 こんにち石垣の上に建っていて、外からもよく見える櫓は、乾櫓、千貫櫓、 一番櫓、六番櫓などわずかなものしか残っていないが、もとは十以上もの立派な 櫓が建っていたのだった。

 二
 さて話を明治維新の頃に戻すが、徳川幕府の瓦解によって空白となった大阪 城は、その後どうなったのか。今度は明治新政府によって創設された陸軍が大阪 城の新たな主となって入城するのである。

 明治四年、大阪城内に大阪鎮台(後の第四師団司令部)なるものが置かれ、 続いて国民に兵役の義務を課する徴兵令が発布されて、大阪城とその周辺には近 代的な軍隊が多数駐屯するようになる。
 
 大阪で一番古い軍隊である歩兵第八連隊は明治七年に編成され、早くも明治 十年の西南戦争の際に出征して、少なくない戦死者をだしている。だが、後に大 阪出身の兵隊はとかく戦争に弱いとされ「また負けたか八連隊」などという文句 でもって揶揄されるようになるのは、この時の西郷軍との戦いぶりに起因してい るという話だ。

 私が若い頃、中国大陸へ派遣される前に一時的に入営した歩兵第三十七連隊 は明治二十九年に創設されている。兵器を造る大阪陸軍造兵廠(後の砲兵工廠) は明治三年、大阪陸軍病院は明治四年、悪名高い大阪憲兵隊は明治十七年に創設 されている。その他枚挙にいとまがないほどの軍隊や軍事施設が次々と設けられ て、明治、大正、昭和(戦前)を通じて、いつしか大阪城とその周辺の広大な地 域は「兵隊まち」などとよばれて、軍事一色に塗りつぶされてしまうのである。

 ところが昭和の初め、一般市民が容易に立ち入れないこの「聖域」に異変が 生じる。それは時の市長で、御堂筋の建設など都市計画に辣腕をふるったことで 知られる関 一が、大阪城内に昭和の天守閣を建てる計画をたてたからだ。だが 大阪城内の実権を握っているのは陸軍で、その承認がなければ小さなバラック一 つ建てることもできない。そこで関市長は「天皇即位という慶事を記念して天守 閣を建てる」という、いくら陸軍でも反対するのが難しい大義名分をうちだして 交渉にはいった。しかし、これだけでは陸軍はうんと言わないかも知れないので 、関市長は天守閣のそばに第四師団司令部の庁舎も新築して、陸軍に寄付すると いう破格の条件もつけたのだった。

 これには陸軍も異存があろうはずはなく、ついに昭和六年に現在の天守閣が できたのだった。同時に豪奢な第四師団司令部の建物も竣工した。この建物は現 在、大阪市立博物館となっているので、とくと見物することができるが、地上三 階、地下一階の洋風建築で、外観は中世ヨーロッパの古城のイメージに近づける ことにより、大阪城の景観と調和を保つように工夫されたという。
 
 当時の予算をみると、天守閣の建設費が二十五万円、師団司令部庁舎の新築 費用が八十万円、公園整備費が二十三万円となっている。師団司令部の建設費が 天守閣の三倍以上もかかっているとは驚きであり、これをみてもいかに大阪市が 軍部のご機嫌をとるのに心をくだいたかが分かる。
 
 一方、大阪市が建てた昭和の天守閣のスタイルであるが、それは「徳川氏の 天守閣」ではなしに、「秀吉の天守閣」に模して建てられることになった。秀吉 の天守閣は、「大阪夏の陣図屏風」と称する有名な絵に描かれた桃山建築の様式 が参考にされた。

 ここで考えなければならないのは、どうして大阪市は徳川氏の天守閣の再建 を目指さなかったのかという問題だ。そうした方が現にある徳川氏造営の堀や石 垣などの遺構とうまくマッチするはずである。ところが大阪市は「大阪城といえ ば、大阪市民が真っ先に描くイメージはやはり太閤秀吉である。徳川氏では大阪 人に人気がないから、秀吉の天守閣を再建することにしよう。その方が観光客を 呼び寄せるにも都合がよろしい」という方針を定めたようなのだ。
 
 こうした大阪市のやりかたは、今日では多くの市民や観光客に「支持?」さ れて、大阪城といえば秀吉という定式のようなものが出来上がっているかのよう である。
 
 しかし、私が考えるに、大阪城といえば秀吉というふうにして、徳川氏の影 を極力薄くしようとしたのは、幕末に徳川氏打倒に奔走した勢力と、そのあとを ついだ明治政府であり、軍部なのである。
 
 江戸時代の大阪人は今の大阪人が考えるほど秀吉を慕っていたわけではない 。むしろ当時の町人は大阪に二百年以上の平和をもたらし、街の発展につくして くれた徳川氏に敬慕の念を抱いていた。ところが徳川氏を滅ぼした薩長勢力を中 心に樹立された明治政府としては、大阪市民がいつまでも徳川氏の治世を懐かし んでいるようなことでは面白くない。そこで政府は意図的に、秀吉を持ち出して きた。そして軍人や識者の間で、しきりに秀吉をもちあげることがはやりだす。
 
 こんにちの大阪では、ある講談師が提唱する「徳川家康をののしる会」とい った奇妙なものがあって、家康は狡猾なタヌキ親爺だが、秀吉はすばらしい英雄 であるといったイメージをばらまいている。明治政府が市民に植え付けようとし たのは、まさしくこういうことだった。

 家康の悪巧みによって滅ぼされた豊臣氏はかわいそうだといった、判官贔屓 的な考えを多くの人が持つようにしむけてきたのも明治政府であり、それに迎合 した識者たちである。しかし、冷静に歴史的事実をながめてみると、秀吉はなに か気に入らないことがあると、肉親や側近といえども容赦なく極刑を課する恐る べき暴君だった。一方、朝鮮の人々は一貫して、秀吉を祖国への無法な侵略戦争 (文禄・慶長の役)をしかけてきた張本人であり、多数の朝鮮人を虐殺した大悪 人というふうに評価してきている。私たちも秀吉の人間像を考える場合、こうし た視点も参考にする必要があるのではなかろうか。

    三
ところで、秀吉の天守閣であろうとなんであろうと、関市長が大阪城内にこう したものを造り、ついでにその一角を公園にしたということは、大阪市政上、画 期的な意味をもつものであった。なぜならば、昭和六年、天守閣という観光施設 ができることによって、明治維新このかた軍部の占有地として一般人の出入りが 禁止されていた大阪城内へ、市民が自由に出入りできるようになったからである 。

 大阪市民は嬉々として新築の天守閣にのぼった。淡路島が手に取るように見 える、すばらしい眺望を存分に楽しんだ。全国各地から多数の観光客もおしかけ てきて、天守閣は大阪随一の名所とうたわれるようになった。
 
 だが同じ昭和六年に満州事変が起こり、それから日本はアジア・太平洋戦争 の泥沼へと足を踏み入れて行くのであるが、戦争の激化にともない、軍部は市民 や観光客が大阪城内に入ったり、天守閣に登ったりするのをいやがるようになる 。その理由は言わずと知れたことで、天守閣八階の展望台に立つと、大阪城に隣 接する大阪砲兵工廠をはじめ、周辺にあるすべての軍事施設が一望できるので、 軍事機密保持上はなはだ面白くないというのだ。
 
 昭和十五年、軍部は市に天守閣の展望台を完全に閉鎖し、各階の窓もブライ ンドで覆ってしまうように要請するにいたる。今にして思えば、こんな姑息な手 段を弄しても、軍人の好きな防諜とやらに格別の効果があるとは思われない。し かし、軍部の秘密主義はますますエスカレートして、ついに昭和十七年、軍部の 指示で、一般市民の大阪城内への立ち入りは一切禁止されてしまう。天守閣では 通信部隊がたむろするようになる。

 関市長がせっかく市民のために軍部に開放させた大阪城地は、わずか十年あ まりで閉鎖されてしまったわけだ。大阪城とその周辺は、再び軍人が横行する特 殊地帯と化してしまうのである。
 
 当時の模様を知る人の話によると、大阪城の大手門には「中部軍司令部」と 大書した看板が高々とかかげられ、銃剣をもったいかめしい歩哨が立っていた。 朝の出勤時ともなれば、馬にまたがった高級参謀を筆頭に、腰の軍刀に片手を添 え、皮製の長靴の音も高らかに闊歩する青年将校たちが続々と大手門をくぐって いく有様は、あたかも戦国時代の武将たちの登城ぶりを彷彿させるようだったと いう。

 だが、昭和二十年にはいるとアメリカ空軍による大阪大空襲があいついでお こなわれ、市域は壊滅的な打撃をこうむるに至る。とくに八月十四日におこなわ れた大空襲により、巨大な兵器工場である大阪砲兵工廠は完膚無きまでに叩きの めされてしまうのである。その醜い残骸が戦後も長く、環状線の列車の窓から望 めることとなるのだ。大阪城も被弾したが、幸いにしてその損害は軽微なものに とどまったことは先に書いた通りである。

 終戦直後の大阪城へは、進駐してきたアメリカ占領軍が、日本の軍部を追っ 払って入城した。この眼の青い大阪城主は、やがて大阪市民の強い要望により、 三年後に大阪城を明け渡すのだが、この間に彼らは紀州御殿とよばれた城内の文 化財を失火で焼いてしまうのである。 

 昭和二十七年頃より、砲兵工廠の残骸を撤去することから大阪城公園の造成 事業が開始されるのだが、約四十年の歳月を閲して、ようやく現在みられるよう な、すばらしい公園となったのである。
 
 こんにちの大阪城公園は、大別して二つの地域に分けられる。一つは周囲を お堀に囲まれ、中心に天守閣や市立博物館などをもつ城内ゾーンである。
 
 もう一つはそれに隣接する広大な森林ゾーンである。ここには大阪城ホール や運動場があるし、「ピースおおさか」という戦争博物館などもある。
 
 また大阪城公園の区域に入っていないが、京阪電車京橋駅寄りに、松下興産 のツインビルを筆頭に、多くの高層ビルが林立するビジネスパークとよばれるゾ ーンがある。さらにJR環状線の線路を隔てて、森の宮電車区(車庫)となって いるゾーンもある。
 
 驚くべきことには、これらすべてのゾーンを併せたところは、戦前、軍部が 占有して、なんらかの軍事施設が置かれ、一般市民が容易に立ち入れなかった場 所なのである。
 
 最後に、この春、新装成った天守閣の壮麗な姿を見るために、大阪城公園を 訪れる人は、なにはさておきこの界隈を、往年のアジア太平洋戦争の終結を契機 に、われら大阪人が軍部から取り戻すことができた貴重なゾーンであるとの認識 をもってほしいと思う。
 
 そして今後、この緑豊かな大阪城公園を、反戦平和を願う市民の砦として、 二度と再び戦争を好む勢力の手に渡してはならないとも思うのである。


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