四国講演旅行 四国学院大学正門


    一
 
 一九九八年一一月二五日。私は四国へ一泊旅行をした。香川県善通寺市にある四国院大学で、講演をするためだった。
 私の家から善通寺までは、新幹線の「ひかり」と土讃線の特急「南風」を利用すると、三時間足らずで行ける。 瀬戸大橋ができたためだ。
 善通寺駅を降りると、すぐメインストリートに出られる。私は街の様子を窺いがてら、ぶらぶら歩いて行った。約一・五キロの間に、市役所、公民館、図書館、郵便局、簡易裁判所、商工会議所などの公共施設が連なり、その中に四国学院大学があった。
 この街路の向こう、ごく間近なところに、三角オニギリのような姿をした香色山をはじめ、五岳連山とよばれる、さして高くもない山々が屏風のように立ちはだかっている。このように市は山の緑を背景にもっているので、この土地に降り立った私の心も、ひとりでになごんでくるのだった。
 市の人口は三万六千。その名はいうまでもなく、ここにある真言宗善通寺派の総本山、四国八十八箇所第七十五番の札所として知られる善通寺に由来している。
 午後一二時三〇分。大学の正門前に立つと、一般市民へも来聴歓迎をよびかける講演会の大きな立て看板がかかげてあった。 「戦争と軍隊に青春ありや――当年七十六歳の詩人が、日中戦争従軍四年の体験を語る。講師・井上俊夫氏。場所・栄光館・四一二教室」などとある。これを私は面映ゆい思いでながめた。
 構内に一歩足を踏み入れると、チャペルがあり、その前に巨大な自然石に「汝の若き日に、汝の造り主を覚えよ――伝道の書十二章」と刻んだ碑が建っている。これを見ても分かるように、この大学はキリスト教を建学の礎に置いている。戦後間もない一九五〇年、リベラル・アーツ・カレッジ四国基督教学園として設立され、初めは短期大学だけしかなかったが、今は大学院もある総合大学を併せたユニークな私学として発展してきており、学生数およそ二千人、教職員七十人ということである。
 この度私を招いてくれた文学部教育学科の堀教授 をはじめ諸先生方に、温かい出迎えを受けた。さっそく打合会が始まる。講演会には障害を持つ学生も参加してくれるとのことで、手話通訳を担当する女性二人もその席に顔を見せた。手話通訳つきの講演など、私には初めての経験である。 「先生は早口の方ですか」  と、開口一番、通訳者は私に質問してきた。早口だと手話通訳がやりにくいらしい。また、 「講演では、主にどんな言葉を使われますか」  とも聞いてきた。 「そうですね。戦争や軍隊の話ですから、『三八式歩兵銃』とか『銃剣』『手榴弾』といった武器の用語が出ててきます。また『将校・下士官・古参兵・初年兵』といった兵隊の身分をあらわす言葉も使います。それに『従軍慰安婦』といった言葉も出てきます」  私がこうした説明をしはじめると、二人の通訳者は即座に忙しく手を動かして、それらのボキャブラリーを片端から翻訳する試みをするのだった。
 講演は午後一時三〇分から三時までの九〇分間。栄光館という名の校舎の大教室でおこなうことになった。私が入っていくと、既に二百人ほどの男女学生が席に着いていた。その中には校外から講演を聴きにきた市民も何人か混じっている。私の講演の要旨や、『従軍慰安婦だったあなたへ』という散文詩などを入れたレジュメが、あらかじめ配布されていた。
 堀教授の演者紹介があった後、私は壇上に立った。
 大学生に向かって話をするのは四年前に大阪の帝塚山学院大学の講師をやめて以来である。帝塚山では何度も戦争の話をする機会があったが、なにしろここは女子大学なので、聴講してくれるのはいつも年頃の娘ばかりだった。そのため私は常々「戦争の話はやはり男子学生に聞いてほしいものだ」という思いを抱いていた。そうした私の願いが、今日かなえられることになったのである。 私が「戦争・軍隊に青春ありや」の演題でしゃべった話の要点を、メモふうに列記すると次のようになる。

 ◇私たち戦中派は少年時代から軍国主義一辺倒の教育を受けて成長した。私は二十歳、青春真っ只中で兵士となった。大阪の歩兵連隊に入営して、そこで陸軍二等兵の階級章がついた軍服と、三八式歩兵銃や銃剣などの武器を支給された。この軍服を着て、武器を持つと、たちまち私たちの個性は滅却され、上官の命令のままに突き進む「軍服感覚」と「武器感覚」というべきものが身についてしまうのだ。
 ◇いよいよ中国大陸に向けて出征することになった時、未知の世界へ飛び込む若者としての心の高ぶりを覚えた。肉親との最後の面会が許された。(ここで私は「可愛いスーチャンと泣き別れ」という、兵士の間で密かに歌われていた軍隊小唄を歌ってみせた。講演中に唄を歌うなんて、これは初めての試みだった)
 ◇今にして思えば私たち兵士の出征というものは、国家権力による、軍用列車と輸送船を使っての強制招待海外旅行であった。生まれて初めて見る異国の風土に、若き兵士たちは好奇心いっぱいの瞳を輝かせた。そして、いよいよ戦地に行くというのに、自分だけは絶対に戦死しないと思っているのが、私たち兵士の常であった。また中国へ行けば、綺麗なクーニャンを抱けるかも知れないという、不逞な期待もあった。
 ◇中国の前線に駐屯する部隊に入隊した私たちは、ここで厳しい初年兵教育を受けた。それにひたすら耐えるのが私たちの青春だった。軍事教練を受けるのは大変な苦痛であったが、同時に命令のままに肉体を酷使し、特に分列行進のような律動的な動きをする時には、一種独特の快感が肉体を貫くのだった。
 ◇軍隊では常に隠微な私的制裁がおこなわれていた。軍隊は暴力が支配する世界、階級と年功序列がものをいう世界だった。私たち初年兵(新米の兵士)は上官や古参兵に酷い目にあわされながらも「陸軍刑法」で極刑に処せられるのがこわくて絶対に反抗しなかった。みんなは夜、ベッドに入ってから、毛布を頭からかぶって男泣きに泣いたものだ。 (ここで私は、哀調を帯びた消灯ラッパのメロディーを口ずさみ、またもや兵士の悲哀をあらわす「消灯ラッパが鳴り響く、五尺の寝台、藁布団。これがわれらの夢の床」という軍隊小唄を歌ってみせた)
 ◇初年兵教育の仕上げとして、私たちは中国兵捕虜を木にしばりつけ、それをみんなして銃剣で突き殺すという、世にも恐ろしい殺人訓練をうけた。けれども私たちには人を殺したという罪悪感はなかった。
 ◇やがて作戦に引き出された私たちは、相次ぐ行軍と戦闘により、肉体と精神を極度に消耗させていった。次第に正常な感覚がなくなり、人間性が荒廃していく。無数のウジがわいた馬の死骸を見ただけで、吐きそうになっていた兵士が、いつしか敵兵の死体のそばでも平気でメシが食えるようになる。が、私たちは若かったので、どんな場合でも笑顔を絶やさず、陽気にふるまうことを忘れなかった。私たちは決して、毎日を泣きの涙で送っていたわけではない。だが、それは一体いかなる青春だったのだろうか。
 ◇こうした酷烈な戦場と軍隊生活を生き抜くために、私が私自身のために編みだした処世訓は「苦労すればするほど立派なオトコになれるんだから、我慢しよう」というものだった。しかし、私はなんら明確な人生の目的も、将来の見通しも持つことができなかった。また一面、国に残してきた恋人に、苦難に耐えて逞しい兵士になった自分の姿を、ひとめ見せてやりたいという感傷的な思いも沸いてくるのだった。
 ◇なぜ兵士は、戦場で虐殺やレイプができたのか。 その理由はいくつかあるが……。
  一、暴力が支配する軍隊では、すべての兵士の人間性が奪われていた。
  二、軍隊生活が面白くない。いつまでたっても内地に帰してもらえない不満のはけ口として。
  三、幼い時から日本人は優秀な民族であるという教育を受けてきたので、中国人をチャンコロとさげすむ心理が常に働いていた。  
  四、中国語がごく簡単な「兵隊中国語」しかできないので、相手のの弁明、愁訴、非難、呪いが分からない。つい面倒くさくなってグサッとやってしまう。
  五、相手を殺したらこの人の家族がどんなに悲しむか。また一人の人間を殺すということは、この人がこれから何十年も生きのびて人生を楽しむことが出来るという、その可能性を奪ってしまうことになるのだということが分からなかった。
  六、女性をレイプすれば、その人に一生癒えることのない傷を与えることになるのだということが分からない。
  七、人間や人生についての無知と、想像力の欠如。
  八、国際条約で捕虜や非戦闘員を虐待したり、殺害したりしてはいけないということになっているのに、日本の軍部はそれを無視していたし、兵士はこうした教育を全然受けたことがなかった。
  九、虐殺もレイプも一人でやるんじゃなく、みんなと一緒にやるんだからかまわない、怖くないという集団心理。
 ◇いわゆる従軍慰安婦と兵士の関係。兵士にとって戦場における唯一の愉楽としての慰安婦の存在があった。兵士と慰安婦の間には心が通い合うこともあった。(時間の関係で、くわしい話ができなくなり、後でレジュメの「従軍慰安婦だったあなたへ」という私の作品を参考してもらうことにした)  ◇ やがて敗戦で中国軍に降伏。武装解除をうけ、捕虜収容所に入れられる。一年後に内地へ復員。戦争と軍隊から解放された時の虚脱感とこみ上げる歓喜。
 ◇戦後の貧困と混乱の中で、兵士から市民へ戻る。私は五年も十年もかかった学習を通じて、ようやく軍国主義を克服し、民主主義的な思考が出来るようになった。  ◇歴史を学ぶことは単に物知りとなるためでも、教養を深めるためでもない。明治以来、稀有の長さでもって続いている現在の平和を持続させるために、歴史の学習、特に「戦争のメカニズムの解明」は絶対に必要である。  ◇今の日本人の間に見られる戦争観の相剋。さまざまな歴史観を検討し学習して、お仕着せや借り物でない、確固とした「おのが歴史観」を持とう。
 それを持てなかった私たち戦中派には「わが青春に悔いあり」だ。  

 私はあらまし以上のような話をしたのだった。話を聴いてくれた学生や市民が、どのような思いで私の話を受け止めてくれたのだろうか。軍隊小唄までいれた私の講演は失敗だったのではなかろうか。講演をしたあとでいつも感じる不安と自己嫌悪のようなものを、この時も感じた。しかし、私が壇上から見届けた限り、講演の途中で席を立った学生は一人もいなかったから、私の話に興味を持ってくれたことは間違いないと思うことにした。
 講演のあと、私はキャンパスを一回りしてみた。大都会の大学と違って、緑豊かな広々とした敷地に、創立以来ほぼ半世紀の間に次々と建て増しされてきたらしい新旧さまざまな姿の学舎が立ち並んでいる。その中には旧陸軍の兵舎だった建物もあった。  あとでふれるが、戦時中の善通寺には、陸軍の第十一師団が駐屯していて、市域の広大な部分が歩兵、工兵連隊などの兵舎や練兵場によって占められていたのである。戦後になってから、その軍用地の一部が市の公共施設や大学の敷地に転用され、残りの大部分はいま自衛隊が使用するところとなっているのだ。
 大学のキャンパスのあちこちにたむろする男女学生の屈託がない姿をみやりながら、私は今更のように、彼らがいま享受しつつある青春と、私たちが過ごしてきた青春を比較してみないわけにはいかなかった。
  この日の夕刻、私は市内の料亭で、堀教授ほか数名の先生方が、私のために開いてくれたパーティに出席して、楽しくも有意義な歓談のひとときを持つことが出来たのだった。

   二

 翌二六日の朝は、駅前のホテルで迎えた。この日は、善通寺市内を気ままに歩いてみることにする。市内の道路は碁盤目によく整備されているので、どこへ行くにも分かりやすい。  先ず、なにはさておき善通寺へ行かねばならない。ホテルから二十分ほど歩くと、寺のシンボルである五重の塔が見えてきた。正門の南大門から入ろうとすると、「五丘山」と大書して梁に掲げられた額と、「弘法大師 屏風浦」「御誕生所 善通寺」としたためて二本の柱に打ち付けた扁額が、否が応でも眼につく。ああ、そうだ、ここは弘法大師が生まれた所で、大師自ら建立した真言宗発祥の根本道場だったのだ。
 大門をくぐると、右手すぐの所に、五重の塔が建っている。間近にその全容を眺めると、思わず溜息がでて、釘付けにされてしまうほど優美な塔である。
 その塔から少し離れて、屋根が二層になった、これまた重厚な金堂がある。中に入って、金色燦然とした一丈六尺の本尊薬師如来の座像を拝ましてもらった。  このあたりの境内は実に広く、綺麗に掃き清められていて、塵一つ落ちていない。ここに樹齢千数百年、弘法大師が誕生した時から繁茂していたと伝えられる楠の大樹が二本も、空高くそびえている。
 御影堂や宝物殿は、ここから中門と仁王門をくぐりぬけた別の境内にあった。今頃はこれという寺の行事がないせいか、西国巡礼の数はそう多くない。けれども金堂や御影堂の前に三々五々佇んでは、声高らかに念仏を唱える善男善女の姿が絶えない。
 境内の一角にはビルマ戦線で斃れた日本・英印・ビルマの兵士たちの霊をまつる仏舎利塔が建っていた。香川県では二千人以上の兵士が、無謀なインパール作戦で死に追いやられているのである。私は見知らぬ戦友たちに黙祷を捧げてから境内の外に出た。
 時刻はちょうど昼時だ。せっかく四国へ来たのだから、名物「讃岐うどん」を食べたい。ところが、それらしい店がどこにもない。世にも名高い善通寺の門前町だというのに、これはいったいどうしたことか。私は仕方なしに、寺のすぐそばで唯一開店しているラーメン屋に入った。門前でのラーメンなんか、うまいはずがない。

   三

 次は寺の南大門からまっすぐ南東へのびる大通りへ出た。銀杏並木があって、ゆったりとした歩道がついた歩きやすい道だ。この道路に面して陸上自衛隊善通寺駐屯地があるのだ。
 私がなぜここへ来たのかというと、いまは自衛隊のものになっているけれど、元は旧陸軍第十一師団の兵舎だった建物の一部がここに残されているからである。その建物は一見してすぐさま明治時代の遺物と知れる赤煉瓦の二階建てである。この頑丈きわまる建物の一棟の長さを推し計ってみると、優に二百メートルはあるだろうか。それが広大な敷地の中に、数棟も残っているのだから壮観である。旧陸軍の兵舎がこんなにたくさん、しかも今なお使用可能という状態で残されているところは、全国でもあまり例がないのではなかろうか。
 また、こことは通りを隔てたところに瀟洒な木造二階建ての、旧陸軍第十一師団司令部跡の古い建物があるが、そこにも今は陸上自衛隊第二混成団本部というのが入っている。これまた旧陸軍の施設、しかも木造建築物であるにもかかわらず、そのまま使用されている、まことに珍しい例と言えるだろう。
 こうした旧陸軍の遺構について、善光寺観光協会発行のパンフには「市を代表する名建築として美しく町並みに溶け込んでいます」などと書いてある。しかし、これは旧軍隊がいかなるものか知らない人の感想である。
 私などは、こうした建物を見ると。昔のいやな軍隊生活がまざまざと思い出されて、口が裂けても「名建築」などといったたわごとは出てこない。
  いま私の眼の前にある赤煉瓦の兵舎には、一階と二階それぞれに、たくさんの窓がついているが、あの一つ一つの窓の中では、下級兵士に対する隠微は私的制裁が日常茶飯事としておこなわれ、多くの兵士が泣きの涙で暮らしていたのだ。ここでも、その兵営生活の苦しさに耐えかねて自殺した兵士が、必ず何人かいたはずだ。
 また現在はその入り口付近に「旧陸軍第十一師団司令部之跡」という大きな石碑が建てられている木造二階建ての建物にしても、胸に勲章をいっぱいつけ、腰に軍刀をぶら下げた鼻持ちならぬ職業軍人どもが、肩を怒らし、革長靴の音も高く、ここに出入りしていたのである。
 さて、こうした昔のことはともかく、今の自衛隊駐屯地の様子を柵の外からちょっと窺ってみる。すると明治の遺物の兵舎と昭和や平成に建てられたと思しき新式の兵舎が混在する広大な敷地の中には、装甲車やトラックなどがいっぱい駐車している。その入り口には衛兵(昔はこう言ったのだが)が出入りの者をいちいちチェックしており、奥の方では作業服を着た隊員が、あちらに十人、こちらに二十人という具合に、なにかの作業をしている。
 これら若い隊員たちは、むろん昔の軍隊生活など知る由もなかろう。私にはまた、今の自衛隊員の暮らしの中身がちっとも分からない。それにしても、自衛隊では昔の軍隊にあったような野蛮な私的制裁の悪習は、完全に払拭されているのだろうか。それとも上官から理不尽な制裁を受けて、暗涙にむせんでいる隊員が今でもいるのだろうか。そして隊員は、一体なにを望みに生きているのだろうか。機会があれば彼らとじっくり話し合いたいものだ。
   さて善通寺市に旧陸軍の師団司令部や各種の連隊が置かれるようになったのは、一八九六年(明治二九)つまり日清戦争直後のことだった。それまでここは弘法大師ゆかりの寺の門前町としてのみ知られた、至極のどかな村だった。
 ところが軍隊は、村民の意向もなにも聞かずにここに白羽の矢を立て、有無をいわさず村民の土地をとりあげて軍用地にしてしまったのである。そしてここから、村には時ならぬ土地の整備事業や兵舎の建設ブームが訪れることとなった。このブームにあやかって一攫千金を夢見ようとする連中が、村にどっと押し掛けてきた。その結果、村内の地価が高騰するといったことになった。
 その中でも特筆に価するのは、ここに遊郭を設置して一儲けしようとする者が現れたことである。こうした業者の動きの裏には、ここに軍隊を置く以上、兵士の相手をしてくれる女が必要だという軍上層部の思惑があったことはいうまでもない。
 こうして遊郭の候補地があちこちに取り沙汰されると、村民が動揺し、猛烈な設置反対運動を展開する者も出てきた。だが、結果的には、砂古裏という所で遊郭が置かれることとなり、第十一師団開庁と前後して営業を開始したのだった。この一事をみても分かるように、明治の創設期から「軍隊のあるところ必ず遊郭あり」だったのだ。これは、いまアクチャルな問題になっているアジア太平洋戦争中における軍隊と従軍慰安婦の関係を考える上で、一つの示唆を与えてくれていると思われる。
 第十一師団の初代師団長として善通寺に赴任してきたのは、かの乃木希典将軍だった。彼は日露戦争の際、第三軍司令官として旅順攻略で勇名を馳せ、後に学習院長となり、一九一二年(明治四五)明治天皇の大葬当日、その後を追って妻静子と共に殉死し、軍神と仰がれるに至った人物である。    もちろん善通寺時代の乃木はそれほど有名ではなかったが、ここにも数々のエピソードを残している。その一つをあげると、将軍はその家族を東京に残して単身赴任してきていたので、市内の第七十六番札所金倉寺の一室を借りて宿舎となし、そこから毎日馬に乗って師団司令部へ通勤していた。その道すがら子供が将軍の姿を認めてお辞儀をすると、将軍は馬上から丁寧に挙手の答礼をした。このことがいつしか子供たちの間で評判となり、彼らは将軍の通勤コースに大勢集まっては一斉に頭を下げ、将軍から答礼されるのを誇りにしていたという。
 その後、第十一師団は、日露戦争、第一次世界大戦、シベリヤ出兵、満州事変、上海事変、日中全面戦争、太平洋戦争と日本がおこなったすべての戦争に参戦するにいたるのだ。
 かくして善通寺は昔ながらの弘法大師ゆかりの門前町として、そしてもう一つ、軍都すなわち兵隊の街として、その名を国中に轟かすのである。こうした街の性格を野口雨情作詞の「善通寺小唄」がたくみにとらえている。

  鐘の音やらラッパの響き
  ここは讃岐の善光寺
  日露、シベリヤ、上海までも
  たてた勲は善光寺
  咲いた桜は皇国の誇り
  勇む軍馬に散りかかる
  讃岐善通寺五重の塔は
  よそじゃ見られぬ総檜

  もちろんこの小唄は、軍国主義華やかなりし頃、すなわち第十一師団が最も活気に溢れていた時に作られたのだった。 ところが、周知のように、一九四五年(昭和二〇)日本の敗戦により、第十一師団は一挙に解体、解散の崖っぷちに追い込まれるのである。それまで善通寺の街を肩で風を切って歩いていた職業軍人どもは、たちまち虚脱・混乱状態におちいり、やがて尻尾を巻いて何処かへ消え失せてしまった。その反面、下級兵士たちは、戦争と軍隊の桎梏から解放された喜びを胸に秘めて、いそいそとそれぞれの家郷を目指して行ったのだった。
 第十一師団の崩壊により、善通寺市内にはポッカリと大きな穴があいてしまった。その時、善通寺より鳴り渡る鐘の音は、いかなる時代がこようとも、善通寺だけは不滅であることを市民に思い知らせたのだった。
 そして、戦後まもなく四国院大学がやってきて、通りを歩く若者たちの姿は、街にかつてなかった清新の気風をもたらすこととなった。
 さらにそれより遅れて、陸上自衛隊がやってきて、驚くべきことには第十一師団の後釜にすわることとなったのである。
 かくして今や善通寺市は、第一に昔ながらのお寺の街であり、第二に大学の街であり、第三に自衛隊の街とは相成ったのである。

    四

  次に私は自衛隊駐屯地と四国院大学の間にある、乃木神社と護国神社を訪れることにした。この二つの神社の境内は隣接していて、どちらへも自由に行き来できるようになっている。
 乃木神社が五万有余人の賛同者と多額の寄付金を集めて、創建されたのは一九三七年(昭和一二)のことである。そのきっかけを作ったのは、昭和五年頃、第十一師団長たりし松井石根大将だった。大将は軍人精神を涵養し、あわせて民心を作興するために、かつては第十一師団の初代師団長であり、いまや軍神として朝野あげての尊崇をうけている「乃木将軍の英霊と静子夫人の霊」を祭祀する神社を、善通寺でも建立しようではないかという提唱をおこなったのだった。
 戦時中、この乃木神社は、東京や京都にある乃木神社同様に相当な賑わいを見せていたようだが、日本の敗戦によって軍神の権威も人気もガタ落ちとなってしまった。私が行ってみると、社務所は無人化して荒廃し、神社本殿は隣接する護国神社の関係者の世話を受けて、辛うじて維持されているという有様だった。
 では護国神社の場合は、どうだろうか。この神社が創建されたのは、一九三九年(昭和一四)のことである。はじめ、神社をどこに設置するかで、善通寺市と丸亀市がはげしい招致運動を展開した結果、善通寺市の勝利に帰したのだった。
 この神社が造られた動機は、いうまでもなく日中全面戦争下における県内の戦死者の霊を祀り、県民の戦意高揚をはかるためで、時の知事、第十一師団長、市町村長らが発起人となっている。当時、こうした県別の護国神社を建てる運動が、全国的に展開され、各府県は競って神社の創建に走ったのだった。そして、これらの護国神社の上に立つのが、東京にある靖国神社だったことはいうまでもない。    ところが、日本の敗戦後、進駐してきたアメリカ占領軍総司令部は、靖国神社並びに全国の護国神社を、国家神道に基づいて運営される軍国主義の温床とみなして、 これが解体を計ったのだった。ために靖国神社と護国神社は、国家や府県の手から切り離されて、一宗教法人として存在することとなったのである。 しかしながら、一九五一年(昭和二六)対日平和条約、日米安全保障条約が調印されると、靖国神社の国営化を要求する運動が保守政党や右翼団体の間で勃然として起こり、以後ますます盛んとなって、こんにちに至っている。そして、こうした靖国神社をめぐる動きは、全国の護国神社にとって、大きな励ましとなっているのだ。
 善通寺の護国神社の境内は、面積約一万二百坪の広さをもち、鬱蒼とした社叢は、ここを訪れるものに大きな安らぎを与えている。一方、拝殿の前には、「天皇陛下 幣帛御奉納 平成七年」などと記した高札が年次順に何枚も麗々しく掲げられていたが、こうした形で護国神社の戦前への回帰がはかれられているのである。

 こうして善通寺市内の見物を一通りすました私は、まだ少し時間があるので、急遽、隣接する多度津町までタクシーを飛ばして、桃陵公園に建つ「一太郎やあい」の母親像に対面したのだった。この「一太郎やあい」については、「一太郎やーい」四国講演旅行続編をご覧いただきたい。

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