耳の奥から水が出るように





小学生の頃、私は
村を貫流している寝屋川でさかんに泳いだものだ。
恐ろしい渦が巻いているモリビという名の樋門を
息を殺してくぐりぬけるという
禁じられた遊びをやってのけては
得意になっている餓鬼大将の一人だった。

すると知らぬ間に耳に水がはいってしまう
こいつは子供心にも甚だ気持の悪いものだった。
なんとかして水を出そうと
耳を下にしてしきりに頭をたたいたり
片足でそこらじゅう飛び跳ねて
耳に振動を与えたりしてみるのだが
意地の悪い水はなかなか出てくれない。
耳の奥の方でゴボゴボ音を立てて
私を嘲笑っている。

それを見た私より二つ年上の照ちゃんが
耳の水を出すコツを教えてくれた。
それはいたって簡単なもので
八月の太陽に焼けて炭火のように熱くなっている
石橋の欄干に耳をじかにあてがって
しばらくじいっとしておれというのだ。

言われた通りにしてみると
不思議なことには、やがて
シュパーッ!
という脳天を突き抜けるような
爽快な音がしたと思うと
耳の奥に貯まっていた水が
一気に外へ飛び出してしまうではないか
その気持のいいことといったらありはしない。

このように頼りになる兄貴分だった照ちゃんは
長じて中川工作所という
自動車の部品を作る下請工場の社長におさまり
村の出世頭と言われていたが
古希をすぎて間もなしに
肺癌で呆気なく死んでしまった。

私は葬式に参列しながら
その昔、照ちゃんの言うままに
小さな耳をあてがった時の
あの焼けた石の欄干のやるせない火照りと
私の耳から逃げ出してきた水で
一銭銅貨のように可愛い水たまりが
石の上に出来ていたことをまざまざと思いだしていた。

照ちゃん、
人間は死ぬ時がきたらどうすればいいんやろか。
やはり熱い石橋のようなものに耳をあてて
じいっとしていればいいのかね。
すると耳の奥から水が出るように
シュパーッ! 
と気持のいい音を立てて
命が身体から抜け出して行くのかね。

でも、照ちゃんはもう何も教えてくれないし
今や寝屋川は悪臭芬芬たる汚水路と化し
あの懐かしい石橋も
どこかへ姿をくらましてしまっている。



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