東大寺境内・花の一本釣り





広大な東大寺境内の桜は
すべて散りはて
花見客の影も絶えてなし。

もう少し早く來ればよかったねと
わたしが言うと
でも、桜の花びらが一面に散り敷いた
淋しい日暮れの道もなかなか乙なものですわと
女が言った。

手に手を取り合って
正倉院の近くまでさまよって行くと
意外や意外
松がまばらな丘の真ん中で
一本の垂れ桜の古木が
今を盛りと花を咲かせているではないか。

わたしたちはすぐさま
その木の下へ駆け寄って
ワアッと子供みたいな歓声をあげた。
太閤秀吉の醍醐の花見など
ちゃんちゃら可笑しい
たった二人だけの絢爛豪奢な花見
これぞまさしく桜の花の一本釣り。

でも、こうして一緒にいる女を
どうしたら一本釣りにできるのか
湯上がりの乳房のような色気を見せて
ぽってりと垂れさがる
桜の花を見上げながら
しきりに花に教えを乞うしかない
わたし。



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